格助詞「が」の正体  あるいは「肇語」という提案   ――― 「神学論争」を超えて ―――                         

1 序に代えて。「は」と「が」の選択は、果たして日本語文法のアルファでありオメガであるのか。 
 
 「が」と「は」を使い分けられるのは韓国人だけだという話を聞く。  筆者は、韓国人を多くは知らないので、その話が妥当であるかはわからない。だが、その話が仮に正しいとしたら、今までの外国人初学者への説明が失敗していること。また、韓国人が使い分けられるという以上、日本人の文化的な特殊性を超えた、何らかの普遍的な法則があるということであるといえよう。 
 だからこそ、われわれは、この二つの助詞にこだだわって研究している。その性質の先に何らかの日本語ならではの重大な法則があるということを期待させるからである。 
 三尾砂氏は、「が」と「は」の選択について、「日本文法のアルファでありオメガである 」(注1)と述べている。新約聖書からの引用されたこの言葉の寓意は明快であるが、私には、「が」と「は」の選択は、日本文法の全てであるとも基礎であるとも、端緒や帰着点であるとも思えない。詳しくは本論全体を読んでいただくとして、その理由を端的に述べると、「が」単独の性質を掘り下げることで理由を解明できる現象が多いからである。むしろ、三尾氏が述べる「日本文法のアルファでありオメガである」とは、「は」と「が」の比較が、出口のない神学論争となっていることの謂いではないか。すなわち、誰もその言葉の正体を知らないのに、比較研究が先行しているという混乱を図らずも指し示しているのではないか。
 たとえば、「奥様」と「女」の二語は、使い分けに一定の思慮分別が必要な語であるが、その用例を考えてよう。 
例1 〇 社長の奥様 
例2 〇 社長の女 
例1は正妻の意味であり、例2は妾や愛人の意味である。しかし、あくまでも二つを並べたとき、たとえば、どちらの語を使うか判断する際にわかる差異なのである。だから、
例3 〇 女便所 
を「妾便所」や「愛人便所」の意味にとることはできない。
 「奥様」とどちらの言葉を使用するか考えることはありえない状況である。だから、恋愛の対象やセックスの相手という含意(connotation)はない。
 当然のことであるが、「女」という語が「奥様」という他の語との比較において意味を持つ前に、「女」という言葉の辞書的な意味(denotation)がある。 「女」と「奥様」は意味が分かっているからまだしも、「が」と「は」はdenotationの意味がまだ分からない語であるから、この段階で含意(connotation)を検討するのは明らかに無理がある。 
 だからこそ、本稿は、「は」との比較を論じなかった。 
 また、同様の理由から、さまざまに論じられている構文にも言及しなかった。また、ヲ格などの格、さらには、接続詞「が」との関係にも触れなかった。「が」を解明して後の研究として格や構文があるのであり、「が」を究明しない段階での研究は、類推や想像によるしかないからである。 
 構文や格、接続助詞「が」などの問題は、次の段階の研究としておいおい取り組んでいきたい。。 
 本論は、目下の混迷の原因を明らかにするとともに、格助詞「が」の正体を明らかにしていくことにする。
  例には便宜上通し番号をつけ、日本語として成立する用例には〇を、成立しない用例には✕をつけ、微妙なものには▲をつけた。また、先学の指摘から拝借した用例や、趣旨が同一の用例もあるが、一々は記さなかった。 
 先学の諸先生方の学恩に、深甚なる感謝を慎んで申しあげます。

2 格助詞「が」研究のあるべき方向性 
 
「群盲、象を評す」 
 
 言語を研究するとは、どういう営みであろうか。 
 本論で扱う、助詞「が」は、「は」と比較して、さまざまなことが言われている。 
 野田尚史氏(注2)の整理を引用しよう。(例文は本間)
 
1) 新情報と旧情報の原理― 新情報には「が」、旧情報には「は」 …何を主題にするかの原理  
例4 〇 山田君が犯人です。 
の「山田君」が新情報に該当し、 
例5 〇 山田君は、クラッシック音楽に造詣が深いです 
の「山田君」が旧情報に該当する。
 
2) 現象文と判断文の原理― 現象文には「が」、判断文には「は」 …主題をもつかどうかの原理 
例6 〇 うちの犬が寝そべっている。 
が、現象文に相当し、 
例7 〇 うちの犬は眠そうだ。 
が、判断文に相当する。
 
3) 文と節の原理― 文末までかかるときは「は」、節の中は「が」 …主題をもてるかどうかの原理 
例8 〇 兄はもつ焼きを食べ、ビールを飲んだ。 
は、文末までかかっている例に相当し 
例9 〇 兄がもつ焼きを食べるとき使った皿は、益子焼だった。 
は、節の中しかかかっていない例に相当する。
 
4) 対比と排他の原理― 対比のときは「は」、排他のときは「が」 …どう取り立てるかの原理 
例10 〇 猫は好きだが、犬は嫌いだ。 
は対比の例であり、 
例11 〇 私が店長だ。 
は、排他の例である。
 
5) 措定と指定の原理― 措定には「は」、指定には「が」 …主題を明示するかどうかの原理 
この耳慣れない用語は、措定文=述語が主語名詞の性質を表わすような文、指定文=主格名詞と述語名詞が同じものを表す という意味らしい。 
例12 〇 貴乃花は横綱だ 
は措定文の例としてあるサイトで上げられている例である。 
例13 〇 鈴木さんが校長だ。 
は指定文の例である。
 
 3で文例を挙げて詳しく述べるのでそちらをご参照いただきたいが、この1~5の「原則」には、例外がある。しかも少数の例外とはいえない上に、国語国文学専攻者でなくとも簡単に思いつくような例外である。 
 また、これらの「原則」に仮に例外がないとしても、まさしく「群盲、象を評す」という言葉が当てはまるケーススタディであり、到底、説明の名に値するとは言えない。 
 「東洋文化」(第118号)に執筆した『謙譲語の新定義の提案 --説明とは何かーー』から、該当する箇所を引用する。助詞に例をとって、ケーススタディには意味はなく、語の中核の意味(別の表現を使えば、服部四郎氏、国廣哲彌氏などの提唱する「意義素」を明らかにするべきだとした一節である。
 
  ・・古文の格助詞の「に」は、ある学習用辞書(注7)によると次のような用法が存在する。  ①〔場所〕②〔時・場合〕③〔動作や作用の帰着点〕④〔動作や作用の方向〕⑤〔動作や作用 の対 象〕⑥〔動作や作用の目的〕⑦〔動作や作用の原因・理由〕⑧〔動作や作用の手法・手段〕⑨〔動作や作用の結果、変化の結果〕⑩[受身表現や使役表現で動作の主体〕⑪〔婉曲(えんきよく)に主体を示し、敬意を表す〕⑫〔資格・地位〕⑬〔比較の基準や比況〕⑭〔状況・状態〕⑮〔累加・添加の基準〕⑯〔強意〕 
 用法の分類は実に16種類にも達し、しかも、決して例外的な用法ではない。果たして覚えきれるか。あるいは、覚えきれたとしても使い分けられるか。「に」が出てきたとき、16種類を一々代入しなければならないのか。何とも悩ましいところである。「そのうち慣れる」など、説明にならない説明は別として、予備校などで実際に行われている教授法は二つある。 
 第一の方法は、注意すべき用法(この場合は⑪)や頻度の高い典型的な用法(①②③④など)を挙げて、「これだけ覚えればいい」とするものである。ところが、多くの学生は、⑥を教えなかったら、⑥はないと誤解してしまう。そうした現象は教育現場の随所で起きていることである。たとえば、漢文の授業で「将」を「まさに…とす」という再読文字であると教えると、生徒は「将軍」の「将」ですら再読文字だと思って「まさに軍とす」と書き下してしまうなどである。そもそも「これだけ覚えればいい」は、どんな用法が出てくるかわからない以上、一種の詐欺、少なくとも一種のギャンブルであるという誹りは免れまい。 
 第二の方法は、中心的な意味(意義素)を教えるというものである。言い方を変えると、単語の持つ離散的な文脈上の意味を連続したものへとまとめ上げる説明である。単語には、場面や文脈の影響で変容したと考えられる部分を取り除いたあとに残る、その語固有の意味である意義素が存在するという意義素論という理論がある。この考え方が便利なのは、用例から帰納的に導き出した中心的な意味を意義素とみなせるという点である。この、格助詞「に」の場合は、「←」(上向き矢印。本論文のような横書きの場合は、左向き矢印)である。 
たとえば、⑧は、 
「火に焼かむ」=「火」←「焼こう」(『竹取物語』) 
⑨ならば、 
「白き灰がちになりて」=「白い灰が目立つ状態」←「なって」(『枕草子』) 
と直観的に文脈上の意味が見て取れる。 
 説得力があり、生徒が理解しやすく使いやすい。ともすれば代表例を挙げて中間のもの を無視するなど離散的になりやすい用法の説明を、グラディーションを描くようにしてある中間の部分まで掬い取ることができるなど、さまざまな長所があるが、最大の長所は、説明になっているということである。「群盲、象を撫でる」という人口に膾炙した格言がある。象の胴体をなでた人が「象は壁のようなものだ」といい、耳を触ったものが「象は団扇のようなものだ」と述べる。断片的事実の描写をいくら積み重ねても象の説明にはならない。だが、象の全体像や本質が分かれば、たとえば象が鼻で円を作った場合など想定外の事態が起きても対応できる。

  右の論は格助詞「に」を例にとって、用法を単に列挙しただけの解説を批判したものだが、「は」と「が」の使い分けの5つの「原則」は、例外があまりにも多いから「用法の列挙」とすらいえないものである。 
 また、「が」の研究は、外国人に対する日本語教育という観点でも重大な問題であるが、細かく場合分けしたフローチャートを渡し、「これを覚えよ」では、指導になるだろうか。 
 言語は使い手が、言葉の中核の意味(意義素)を薄々知って初めて、運用や理解が可能になる。ことに外国語の場合、「onは、接触だ」などという中核の意味を教授することこそが重要であり、それがなければ、指導とは言えないだろう。
 我々は言葉を一瞬で運用する。したがって従来のケーススタディやフローチャートの語義説明は、あまりにも実情に合わない。 
 
 相関関係から出発する誤り 
 
 大部分のケースを一定の説得力をもって説明するが、全てに当てはまらない説明や「法則」と称するものを、どう考えればいいだろうか。例外が多いということは、因果関係ではなく相関関係である。確固たる原因結果の関係がないからである。 
「金持ちに、性格が悪い人は少ない」という意味の、「金持ち喧嘩せず」「銀のスプーンと黄金のハートは両立する」などの形で、俗に流通している世間知を考えてみよう。これぞ、大体は言えるが例外が多いものである。しかし、「金持ちはストレスが少なく精神的な余裕があるから」のような条件を補えば成立するかもしれない。そう考えると、相関関係の背後には、意味ある法則が潜んでいそうにみえる。 
 その法則を探したくなるのは人情であるが、決して甘いものではない。 
 補った条件は、恣意的な空想に過ぎないからである。その空想がたまたま的中すれば、(あくまでも事後的に)意義ある法則に昇格するということに過ぎない。ウイリアム・T・ホイットビ― というオーストラリア人の愛煙家の医師が書いた『タバコは悪くない』(注3)という本がある。そこでは、「肺がんにかかりやすい人は自分が肺が弱いことに無意識のうちに気が付いている。だからこそ、肺を癒すためにタバコを吸うのだ。肺がん患者が喫煙するのは、タバコが有害だからではない。肺に有益だからこそだ。」という、実に興味深い論理が展開されている。だが、この論理をただちにこじつけと決めつけることはできない。次のクイズを考えてみよう。 
 次の中で、がんによる死者が少ないグループはどれか。 
1 がんの手術を受けた人 
2 がんの放射線治療を受けた人 
3 1や2に当てはまらない人 

正解は、もちろん3である。それならば、「手術や放射線は、がんにかかりやすくなるからやめた方がいい」ということになるだろうか。なるはずはない。 
 少なくとも論理展開の観点から、われわれは、ホイットビー博士を笑うことはできない。相関関係を「根拠」にして、間違った認識に陥る危険性をなめてはいけない。 
「女性の月経と月の満ち欠けの周期は、ほぼ、同じである。だから、スピリチャルには、女性と月は同じ(同じスピリットを持っている、同じ守り神に支配されている、女性は月の神の化身である…)だ。」 
などという、数万年にわたって多くの人類を騙し続けた誤りすらあるのだ。 
 これらの例が間違いであると我々が理解できるのは、手術や放射線とはどういうものか、月経や月の満ち欠けとはどういうものかをあらかじめ別の経路を通じて知っているからである。「が」や「は」のように、まだその本質を理解していない語句の研究は、相関関係からではなく、ほぼ例外がない現象から出発し因果関係をつかむべきである。そうすれば、ホイットビーのタバコ有益説のような、現象の意外な解釈に足を掬われることがを比較的防げるだろう。 
 庵功雄氏は、「100%を目指さない文法」(注4)を目指す由である。この言葉の意味は、現象を百パーセントではなく大体説明する文法を樹立するという意味であってはならないだろう。そうすると、女性の月経と月の満ち欠けを結びつけるという相関関係の轍を踏むすことになりかねない。むしろ庵氏の言葉は、言葉の数多くの法則のうち、百パーセントではない一部の法則を完璧に説明するべきだと受け取り、肝に銘じたい。 
 

3 「が」の正体は、「肇語」ーーーー 文脈が明らかなときに、述語を成立させる必須の要素を示し、表現を新たに始動させる語 ーーーー  である。

「が」の、例外がない現象の一つに、 
 希望、好悪、能力、身体など、主格の人間的な状態を示す語の目的格にはなるが、行為の対象を示す目的格にはならない。 
ということが挙げられる。 
例14 〇 私はバナナが好きだ。 
例15 ✕ 私は車が乗る。 
 例14は、三上章氏の「象は鼻が長い」と同じパターンであり、日常、よく使われる文章である。 
「私は」も「バナナが」も「好きだ」にかかる。「私が」が「バナナが好きだ」というユニットにかかると考えても、同じことであり、問題なく文として成立する。 
 だが、なぜ、同じ目的格なのに、例15 ✕ 私は車が乗る。は成立しないで、 例14が成立するのかという大きな問題が残る。 
 ここで、少し、遠回りをしよう 
 近代文学の話になるが、安藤宏氏は、『「私」をつくる ――近代小説の試み』(注5)において、「日本語は「一人称」の判断が叙述に潜在している点に、その特色がある」とする、熊倉千之氏の言葉を引いて、川端康成『雪国』の主格について、「ある時は「一人称的視点」をよそおい、またある時は「三人称的視点」をよそおっていると考えてみたらどうだろう」と述べている。 
 確かにそのとおりである。あの、有名な「国境の長いトンネルを抜けたら、そこは雪国であった。」という『雪国』の冒頭の文を、「島村を乗せた列車が、国境の長いトンネルを抜けたら、そこは雪国であった。」などと主格を補ったら、この文章の魅力は雲散霧消するだろう。 
『雪国』の作品論を立てるのが本論の目的ではないので、ここでは、主格は、時には隠蔽されるほどの存在であり、第一義的に重大なものとは限らないことを確認しておく。日常的な言語でも、 
例16 〇 秋には、秋刀魚がおいしい。 
など、主格が不明な例は多い。 
 哲学者の大森荘蔵氏は、『世界の眺め』(注6)の中で、「歯が痛いとき、痛んでいる歯と痛まれている自分を区別しても意味がない」と述べている。その通りである。「私はバナナが好きだ」という文章は、説明の方便として「私は」という主格を付しただけであり、この主格は「私は歯が痛い」の「私は」と同様に、必須の表現とは言えない。歯の痛みと同様に、主格の表現を介さずに、主客未分のまま、直接的に現象する状態なのである。 
 縷々と説明したが、この辺りで、結論から先に述べるしよう。 
 格助詞「が」は、次のような語である 
  文脈が明らかなときに、述語を成立させる必須の要素を示し、表現を新たに始動させる語
 主眼点は、述語が動詞である場合は、動詞に対する主語である。述語が動詞ではなく状態、希望、好悪、能力、身体などの人間的な状態を表す語の場合は、状態の対象(本当は、主客未分の状態であるから「対象」という言葉を使うのは間違いであるが、説明の便宜のためにの言葉を使う)が主眼点に当たる。 
 「主格」や「主語」ではないので、本論では新たに「肇語」という用語を使用することにする。 
 後書きでも触れるが、どのような言葉をつけたらよいか、「起動語」などと迷った。「起動語」は、表現のスターターとなる語という意味であるから、ニュアンスがすぐにつかめる。特にパソコン世代にはよくマッチする語であるが、語感がいかにも軽い上に、当てはまる領域が広くなりすぎそうである。漢字から探すことにすると、最もふさわしいのは、「肇語」であろう。「肇」の持つ、「始める」「起こす」などの意味、さらに「基礎をひらく」「ただす」などの意味が、「が」の本質をいい当てているからだ。 
 既存の文脈に続くものであるから、 
例17 ✕ 木曽路が山の中であった(島崎藤村『夜明け前」の冒頭の文「木曽路は山の中であった」の「は」を「が」に替えたもの) 
といきなり述べることはできない。しかし、 
例18 〇 腹が痛い 
とはいうことができる。話者が身体をもってどこかに現前しているのは、明らかな前提だからだ。また、 
例19 ▲ ぼくがパイナップルが嫌いだ。 
のように、「が」を二つ重ねるのは通常、難しい。 
肇語「が」という、述語を開くスターターは、一つで十分だからである。しかし、 
例20 〇 噂を聞いて、田中が、山田が駆けつけてくれた。 
は、成立する。それは、「田中」同様に「山田」も「駆けつけてくれた」という述語に対して、肇語が二つあって当然だからである。山田はうわさを聞いて10時に駆けつけ、田中は午後の2時に駆けつけたかもしれない。意味は同じでも別の動作であるからだ。 
 
3 肇語という概念が、説明してくれるもの。 
 
 「が」については、非常に多くのことが言われている。 
すべてを扱うのは無理であるから、本稿では手始めに、1で上げた、野田尚史氏の整理した、「は」との5つの区別の原則を説明する。格助詞「が」を肇語と考えることにより、「が」の「原理」とされているものが説明可能であることを示したい。 
  文法を考察する際に注意しなければならないのは、文法的な性質だと思ったものが、文法に由来するものではない場合も多いということである。一般常識として当然そうなる性質もある。その代表的なものが、2 格助詞「が」研究のあるべき方向性 で批判した相関関係生成の原理である。この五つは相関関係であって因果関係とは言えない。 「が」の肇語としての性質が、この五つの現象を作動させる因果関係、言い換えれば真実の原因なのである。 

1) 新情報と旧情報の原理― 新情報には「が」、旧情報には「は」 …何を主題にするかの原理  
肇語として新たな表現を始動させるのが「が」であるから、 
例21 〇 山田という人が校長として赴任するそうです。 
のような表現が多くなりがちであるのは、当然である。新たな表現の始動であるからである。しかし、 
例22 〇 コアップガラナは常々君が大嫌いだと言っていた飲み物だが、そのコアップガラナが、北海道で売れている。 
のように、旧情報であっても、特筆性がある内容を述べたい際には、「が」が使われる。 

2) 現象文と判断文の原理― 現象文には「が」、判断文には「は」 …主題をもつかどうかの原理 
 新たな表現が始動するのであるから、新しい事実、聞き手が気が付いていない事実であることが多いだろう。だから、現象文には「が」が比較的多くなるのは当然である。「が」の性質というより、現象というものはそういう性質のものであるからだ。だが、もちろん、 
例23 〇 空は晴れている。 
という例外は多くある。 
また、判断文とは、判断を表す表現である。その前に事実を知っているのが自然だから、確かに頻度として「が」、すなわち肇語による表現の始動は少なくなるが、 
例24 英語が合格のカギです 
という文章は、判断を表している。念を押したり聞き手の認識を改めたりするために、肇語を使って、新たな述語表現をしているのである。 
3) 文と節の原理― 文末までかかるときは「は」、節の中は「が」 …主題をもてるかどうかの原理 
例25 〇 兄が救急車で搬送されたとき、意識を失っていた。 
文末までかかるか、節の中だけにかかるかは。「が」を肇語としてとらえるという問題とは、あまり関係がない。従属節の主語と同じ主語が、主節の主語に当たれば、当然、例25のような表現になるというだけである。では「は」は比較的に主節の最後までかかることが多く、「が」はそうではないことが多いのは、なぜかという問題は、「は」と「が」を比較することになるので、ここでは扱わない。
 
 4) 対比と排他の原理― 対比のときは「は」、排他のときは「が」 …どう取り立てるかの原理 
新しい述語表現を起動させるということは、わざわざその内容を取り立てて述べるのであるから、 
例26 〇 今日が締め切りだ 
というように排他の場合は多いだろう、しかし、 
例27 〇 ぼくが、クラスで一番物理ができる。 
のように、対比に当たる場合が出てくるのは当然である。 

 5) 措定と指定の原理― 措定には「は」、指定には「が」 …主題を明示するかどうかの原理 
この耳慣れない用語は、措定文=述語が主語名詞の性質を表わすような文、指定文=主格名詞と述語名詞が同じものを表す という意味らしい。 
例28 〇 琵琶湖が日本で一番大きな湖です。 
例29 〇 新潟県立長岡高校は私の母校です。 
のような反例はいくらでも見つかるが、そもそも,、これは、「原則」とは認めがたい。 
 「主語名詞の性質」と「主語名詞と同じもの」の二つを分離できるとは思えないからである。言語は、事物を指すものというよりも、井筒俊彦氏(注7)など多くの論者が指摘するように、事物を一定の価値観でとらえたものであるからだ。 
たとえば、 
例12 〇 貴乃花は横綱だ。(再掲) 
例30 〇 横綱は貴乃花だ。 
例31 〇 貴乃花が横綱だ。 
例32 〇 横綱が貴乃花だ。 
(「横綱が貴乃花だ。だから、あの時代は、大相撲はギャルに人気があった」などという表現は自然である。) 
これらの例は、すべて成立する文であるが、ここでいう「横綱」は、現に息をして歩いている特定の存在を指しているのか。それとも大相撲の力士の最高位という状態であるか、分離できないのは当然である。
 
4 終わりに 
 
 本論をどう構文の解釈に発展させるかが、残された課題である。 
 だが、今後、微調整が必要になるかもしれないが「肇語」という「が」の中核の意味や意義素の他に、構文のようなものを設定しなければならない必要はないかもしれない。よく知られた、三上章氏の「象は鼻が長い」にしても構文として特別視するのが妥当であるか、はなはだ疑問である 。 
「…花子さんの帽子が飛ばされ、木の梢に引っかかりました。首が長いキリンはいません。森のみんなは首が短いです。そうだ。象が鼻は長い。象さんに頼んで取ってもらおう」などの例がすぐに思いつくからだ。。肇語「が」や、本稿では取り扱わなかった「は」の性質から演繹可能であろう。今後の課題とし、本論と同じ方向で検討して行きたい。
 
 「肇語」という名称は、述語のスターターとして、文脈の中に新しい論点を付け加えるという意味を持つので、最もふさわしい語だと考えた。他の候補は、「始語」「啓語」「起動語」などであった。いささか個人的なことであるが、当会前図書館長の石田肇先生と同じ字であるから、一種の面映ゆさのようなものを感じた。先生には、何くれとなく懇意にしていただいている身であるものの、もとより、いささかの阿諛追従の気持ちはない。字は漢字文化圏が共有する文化遺産であるので、特に、先生にお断りを申し上げることなく使用した次第である。 
 なお、高瀬浩之さんに数学(論理学)の質問を、宮前一廣さんに言語学の質問を受けていただいた。また、小林春樹先生には引用した漢語について教示をいただいた。末筆ながら感謝いたします。 
 

引用文献書誌情報 
注1 三上章 (1963 )『日本語の論理』 くろしお出版
注2 野田尚史(1996)『「は」と「が」』くろしお出版 新日本語文法選書  
注3 ウィリアム=ホイットビー(1980)『タバコは悪くない』(立風書房) 
注4 庵功雄(2010) 『【特別寄稿】産出の文法としての日本語教育文法 ―「は」と「が」の使い分けを例としてー』台湾日本語文学報 28 40-55 
注5 安藤宏(2015)『「私」をつくる 近代小説の試み」』 岩波新書 
注6 大森荘蔵(1981)『流れとよどみ 哲学断章』所収『世界の眺め』 産業図書  
注7 井筒俊彦(1972)『意味の構造 "意味の構造 : コーランにおける宗教道徳概念の分析"』英文著作  牧野信也訳 新泉社  


この論文は、公益財団法人無窮会発行「東洋文化」に掲載されたものです。
平沼騏一郎や大隈重信が創設した無窮会は、内閣府所管の公益財団法人としては、二つしかない東洋学の財団です。
「東洋文化」は、財団が発行する全国規模の査読付き学会誌です。
2025年一月以降、国会図書館、国文学研究資料館、などでみることができます。

#格助詞が #係助詞は #助詞使い分け

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