謙譲語の新定義の提案 ――― 説明とは何か ――― (この論文は、「東洋文化」第198号に収録されたものです)
謙譲語の新定義の提案
――― 説明とは何か ―――
本間 也寸志
はじめに
筆者は、一年次の大学生を対象に、「国語表現法」や「日本語表現」などの科目の担当者として、大学生レベルの現代の国語を教えている。座学だけでは習得は難しいので添削や小テストを実施しているが、御多分に漏れず、大半の学生は敬語を正確に使うことができない。まるで高校生の英作文の誤答のような、稚拙であるからこそ、懸命さがいやましに滲み出ている答案をみると、何とかしてあげなければならないなとしみじみと思う。
出来ない原因は、学生の不勉強の問題もさることながら、何といっても教える側の問題が大きい。現代語の敬語を理解している教員は少数派である(注1)上、特に謙譲語の場合、教員によって教える定義が異なり(注2)、Ⅱにて詳述する説明になっていない解説が横行しているからである。
本編では、現代語の敬語の定義について何が正しく、どう理解するべきかを考察した。
中でも特に違和感を禁じ得ない謙譲語の定義に焦点を当てて、はじめに Ⅰ 謙譲語の原則と例外 Ⅱ 説明とはどういうことか Ⅲ 表象を受け渡すということ Ⅳ 謙譲語の新定義の提案 終わりに の六節に分けて論じることにする。
なお、「例」の次に記した「〇」は正しい表現という意味であり、「×」はまちがっている表現という意味である。先学の諸先生の著述から多くの例文を借用したが、一々は記さなかった。先人の学恩に、ここに深甚なる謝意を表する。
Ⅰ 謙譲語の原則と例外
現代語の謙譲語の定義を考える作業は、そう簡単なことではない。
方向性が全く違う二つの定義があり、その他に原則だけではうまく説明がつかない現象が多く存在するからである。まず、大まかな二つの定義のうち
「動作の対象を尊敬する言葉」が正しいか
「言葉を使用する人がへりくだる言葉」が正しいか
を再確認してみよう。新味のない内容で恐縮だが、しばしお付き合いいただきたい。
現在、敬語の定説となっているのは、2007年に、文化庁の委嘱した文化審議会がまとめた「敬語の指針」(注3)である。本論はこれを基本的に支持した上で、さらに汎用性が高い定義を提案するつもりであるので、まずは「敬語の指針」の内容を確認する必要があるからである。情けないことに。言葉遣いの専門家を名乗っているライターですら、しばしば無視していたり誤読したりしている箇所であるので注意が必要である。
「敬語の指針」が結論として謙譲語Ⅰの定義としているものは、
「自分側から相手側又は第三者に向かう行為・ものごとなどについて,その向かう先の人物を立てて述べるもの」である。
結論の補足として次の解説がある。
「謙譲語Ⅰを使う心理的な動機としては,「〈向かう先〉の人物を心から敬うとともに自分側をへりくだって述べる場合」「その状況で〈向かう先〉の人物を尊重する述べ方を選ぶ場合」「〈向かう先〉の人物に一定の距離を置いて述べようとする場合」など、様々な場合があるが、いずれにしても、謙譲語Ⅰを使う以上、〈向かう先〉の人物を言葉の上で高く位置付けて述べることになる。以上のような様々な場合を通じて 「言葉の上で高く位置付けて述べる」という共通の特徴をとらえる表現として、ここでは「立てる」を用いることにする。(第2章 敬語の仕組み 第1 敬語の種類と働き 2 謙譲語Ⅰ伺う・申し上げる型)(傍線引用者。断りのない限り以下同様)
「敬語の指針」は、「へりくだる」を、多くある心理的な動機の一つとし、定義とはとらえていない。日本のどこかで今日も話されている、次のような平凡な文を考えれば大いに納得できる。
例1 〇「社長、A工業への営業の件は新人の山田君に話しておきました。ところで、社長、A工業の件で折り入ってご報告しなければならないことがございます」
傍線部の「ご報告し」は、誰が誰に対してへりくだっているのであろうか。もしも、聞き手である社長に対してへりくだっているなら、前半も「新人の山田君にお話ししておきました」と謙譲語Ⅰを使わないといけないが、もちろん、そうはならない。社長は尊敬するべき存在であるが、「山田君」は尊敬するべき存在ではないからだ。「いや、行為の受け手が尊敬するべき人の場合、行為の為手をへりくだらせる、つまり下げて表現するのだ」という反論があるかもしれない。では、
例2 〇「専務も社長にご報告したが、ご立腹していてまともに聞いてくださらなかったそうだ」は、どうか。社長の手前、自分より高位である専務を下げているなどと考えるのは無理である。また、
例3 〇「高校時代のA先生をお慕い申し上げております」
という謙譲語を使用して表現することはできても、
例4 ×「A先生がご無事でご安心申し上げました」
などとは表現できない。その理由を「へりくだる」では説明できないのは明白である。「へりくだる」や「低める」という態度は、目的格、向かう先、補語と呼ばれる対象がなくても成立するものであるから、目的格が存在することが前提となっている謙譲語Ⅰの説明として不十分であるのは当然のことである。
以上のような例から考えると、「謙譲語Ⅰは自分をへりくだる言葉である」という定義は、到底採用できない単なるまちがいであるとわかる。
謙譲語Ⅰを「動作の向かう先を尊敬する(「立てる」なども同じ」という考え方で説明することは、今に始まったことではない(注4)。かなり昔から採られている考え方である。それでもなお「へりくだる」という説を取る研究者がいるが、その根拠は何であろうか。菊池康人氏は、名著の誉れ高い『敬語』の中で、
例5 〇「部長が社長をご自分の別荘にご招待したそうです」
とは言えても、
例6×「社長が部長をご自分の別荘にご招待したそうです」
とは言えないことを根拠に、「自分を下げる」要素があるとしている(注5)。ちなみに、菊池氏は文化庁「敬語の指針」に参加しておられるが、この『敬語』は、「敬語の指針」が発表される数年前になったものである。菊池氏の結論は、
「謙譲語A(引用者注 「敬語の指針」の謙譲語Ⅰに相当する。以降は謙譲語Ⅰとする)は、話手が補語を高め、主語を低める(補語よりも低く位置付ける)表現である」とのことであるが、菊池氏も続く部分で、「ただ《補語よりも低く位置付ける》というだけのことなのである」としている通り、そもそも、補語を高めるということは、相対的に主語を低く位置付けるということに他ならないから、この説明には全く意味がない。この現象は原則以外の例外的な事象として研究するべきであり。「自分を下げる要素がある」などと、定義を侵食し場合によっては全面否定する説明をするべきではない、もしも定義が誤っているといるなら、書き換えれば良いだけの話である。
汎用性のある定義を決め、そのうえで個別の現象の研究をする。そうしないと、さまざまなレベルの話が混同され、謙譲語の本質は闇に沈むだけである。
それにしても、謙譲語の運用を考察する際、定義を立ててもそれだけではうまく説明できない現象によく突き当たる。この例6は、
1 補語が主語より下位者である場合、使えない。
という現象とまとめることができる。
他にも、「敬語の指針」を含めた従来の謙譲語の定義では、説明がつかない現象がある。
2 悪いことを表現することができない。
例7 × 犯人は先生に脅迫状をお送りした
この例文は、森山由紀子氏の指摘(注6)によるものである。確かに一目して、謙譲語Ⅰは使えないとわかる。なぜであろうか。森山由紀子氏は、(犯人と先生との間の)「敬譲関係」(「話題になっている両者の間に、師弟関係にあったり、同一組織に属するなど、何らかの結びつきを有した上で発生した上下関係」)が謙譲語Ⅰ使用の条件と述べている。だが、この考え方は不正確である。
同じ電車に乗り合わせた他人に私たちは敬語を使うが、もちろん「敬譲関係」がない相手であるからである。
また、私は次のような院生時代の出来事を思い出した。修士論文の面接で田中教授(仮名)に厳しい質問を浴びせられてたじたじとなった山田さん(これも仮名)が、控室の国文科研究室で大層荒れていたのであるが、
例8 × 「クッソ~ 田中先生のお宅に火をお点けする」
とは言わなかった。身分関係でいうと、山田さんは田中先生を指導教授と仰ぐ院生である。だが、こう言えるはずはない。実際に、私が聞いた言葉は、
例9 〇 「クッソ~ 田中んちに、火イ点けてやる」
である。例8のように言えない理由は、師弟関係や会社組織などの社会的に生じる敬譲関係では説明できないが、尊敬の念などの主観的な価値判断から説明できるかというとそれも誤りである「火イつけてやる」とは言っても、師弟関係を止めるつもりはないからだ。今でも尊敬してはいるものの「先生はひどい」と憤慨しているのである。やはり、主格と補語との何らかの関係性を理由とするというよりは、単に「悪いことを表現することができない」とするのが妥当であろう。
3 尊敬語同様、身内に対して原則として使えない。
例10 ✕「私は兄のマンションに伺いました」
などが挙げられる。
しかも、この1~3は、「「お話しする」「申し上げる」はともに使えるが、「拝見する」とは言えても、「見申しあげる」とは言えない」などという、個々の単語の語誌に還元できることではない、謙譲語に普遍的にみられる現象として扱わなければならないものである。
Ⅱ 説明とはどういうことか
このように、敬語は、原則から演繹できない例外的な事項や細則が多いが、その一つ一つを誠実に説明するべきであろうか。
誠実に説明するという姿勢はまことに結構なことだが、天気予報が厳密になろうとすればするほど「晴れまたは曇り。ところにより雨」などというおよそ実用に適さない予報になるという。敬語の定義も同じである。「説明を省略しようというのか」とお叱りを受けそうであるが、そうではない。一つの説明ですべての事態が網羅できるような説明を考えるべきだということである。
たとえば、古文の格助詞の「に」は、ある学習用辞書(注7)によると次のような用法が存在する。
①〔場所〕②〔時・場合〕③〔動作や作用の帰着点〕④〔動作や作用の方向〕⑤〔動作や作用の対象〕⑥〔動作や作用の目的〕⑦〔動作や作用の原因・理由〕⑧〔動作や作用の手法・手段〕⑨〔動作や作用の結果、変化の結果〕⑩[受身表現や使役表現で動作の主体〕⑪〔婉曲(えんきよく)に主体を示し、敬意を表す〕⑫〔資格・地位〕⑬〔比較の基準や比況〕⑭〔状況・状態〕⑮〔累加・添加の基準〕⑯〔強意〕
用法の分類は実に16種類にも達し、しかも、決して例外的な用法ではない。果たして覚えきれるか。あるいは、覚えきれたとしても使い分けられるか。「に」が出てきたとき、16種類を一々代入しなければならないのか。何とも悩ましいところである。「そのうち慣れる」など、説明にならない説明は別として、予備校などで実際に行われている教授法は二つある。
第一の方法は、注意すべき用法(この場合は⑪)や頻度の高い典型的な用法(①②③④など)を挙げて、「これだけ覚えればいい」とするものである。ところが、多くの学生は、⑥を教えなかったら、⑥はないと誤解してしまう。そうした現象は教育現場の随所で起きていることである。たとえば、漢文の授業で「将」を「まさに…とす」という再読文字であると教えると、生徒は「将軍」の「将」ですら再読文字だと思って「まさに軍とす」と書き下してしまうなどである。そもそも「これだけ覚えればいい」は、どんな用法が出てくるかわからない以上、一種の詐欺、少なくとも一種のギャンブルであるという誹りは免れまい。
第二の方法は、中心的な意味(意義素)を教えるというものである。言い方を変えると、単語の持つ離散的な(注8)文脈上の意味を連続したものへとまとめ上げる説明である。単語には、場面や文脈の影響で変容したと考えられる部分を取り除いたあとに残る、その語固有の意味である意義素が存在するという意義素論(注9)という理論がある。この考え方が便利なのは、用例から帰納的に導き出した中心的な意味を意義素とみなせるという点である。この、格助詞「に」の場合は、「←」(上向き矢印。本論文のような横書きの場合は、左向き矢印)である。
たとえば、⑧は、
「火に焼かむ」=「火」←「焼こう」(『竹取物語』)
⑨ならば、
「白き灰がちになりて」=「白い灰が目立つ状態」←「なって」(『枕草子』)
と直観的に文脈上の意味が見て取れる。
説得力があり、生徒が理解しやすく使いやすい。ともすれば代表例を挙げて中間のものを無視するなど離散的になりやすい用法の説明を、グラディーションを描くようにしてある中間の部分まで掬い取ることができるなど、さまざまな長所があるが、最大の長所は、説明になっているということである。「群盲、象を撫でる」という人口に膾炙した格言がある。象の胴体をなでた人が「象は壁のようなものだ」といい、耳を触ったものが「象は団扇のようなものだ」と述べる。断片的事実の描写をいくら積み重ねても象の説明にはならない。だが、象の全体像や本質が分かれば、たとえば象が鼻で円を作った場合など想定外の事態が起きても対応できる。理解や説明の研究はギリシア以来の伝統があるが、理解は断片の知識の集合であると解釈された試しはない。アリストテレスは『形而上学』において「経験家の方は、物事のそうあるということ〔事実〕を知っておりはするが、それのなにゆえにそうあるかについては知っていない。しかるに他の方は、このなにゆえにを、すなわちそれの原因を、認知している。」(注10)。事実を結び合わせる因果関係的内容や本質の説明こそが説明であり、事実の列挙は説明の名に値しない。
実際問題として、一つの原理で説明できるものを、多数の原理で説明するからこそ、話がややこしくなるのである。ビジネス書などのハウツーものではなく、大学生に勧めるに値する内容のある書物、たとえば、辻村敏樹氏の『敬語論考』(注11)は、643ページ、本論でも繰り返し扱っている菊池康人氏の『敬語』は、講談社学術文庫の細かい活字で450ページ以上と分厚い。国語学専攻ではない大学生が本業の片手間で読める分量ではない。参考文献として紹介はしたが「読め」とはいえなかった。
説明を構築する前提として、当然、用語も工夫しなければならない。湘南鎌倉医療大学にて受け持っている受講生百人の「国語表現法」において、敬語の説明に入る前に「敬語に関して疑問に思っていることや知りたいことを書いてください」というアンケートを取ったら、非常に示唆的な結果が出た。まず、
「謙譲語は相手を尊敬しない言葉であるが、相手を尊敬しない敬語という意味がよく分からない」
という記述が五枚もあった。尊敬語、謙譲語、丁寧語という用語を教わった(注12)から、この三者が異なるものだと思い込み、謙譲語は尊敬語ではないと彼女は考えたのだった。同様の誤解として、
「尊敬語、謙譲語、丁寧語の使い分けを知りたい」
というものも十枚近くあった。詳しく話を聞くと、為手尊敬か受手尊敬かといった使用方法の違いではなく、たとえば、「恩師には尊敬語を使い、初対面の顧客には、尊敬できる相手かどうかまだわからないから尊敬語を使わずに謙譲語を使い…」などという敬意のあり方の違いによる使い分けがあるのかと思っていたのだった。彼らの誤解には無理はない。「麺類とうどんとスパゲッティ」などという表現はありえない。並列されているものは異なるものだと思うのは自然である。敬語は解説の前の呼称の段階で誤っているのだ。
近代以降、日本の国語学者は、「かざし」「あゆい」(共に富士谷成章)「通ひ路」(本居春庭)などの、国学者が案出した、日本語の実情を現代の文法用語よりも正確に捉えた用語をゆえなく破棄し、「助動詞」という一見して誤りだとわかるような用語を使い、学校教育を乱した。だから、今、「尊敬語、謙譲語Ⅰ、謙譲語Ⅱ、丁寧語、美化語」という分類を変更したとしても、何ら咎めだてられる筋合いのことではない。
あらゆる語義解釈は、宿命的に帰納的である。果たして、単語は意義素という中核の意味を持つと言えるか。意義素論を是とするも非とするも、帰納的な語義解釈を否定することは何人にも不可能なことである。
Ⅲ 表象を受け渡すということ
例外的な事項や細則といえば、古文と現代文の異同の問題も悩ましい。
森山由紀子氏は『謙譲語から見た敬語史、丁寧語から見た敬語史 ―「尊者定位」から「自己定位」へー』(朝倉日本語講座8「敬語」(北原保雄 監修)東京 朝倉書店 204P 2003年)において、①主語が上位で、補語が下位となる場合 ②主語と補語の間に敬譲関係がない場合 ③敬譲関係に反する行為である場合 ④具体的な働きかけや行為の授受がない場合 は、平安時代は謙譲語A(謙譲語Ⅰと同じ)を使って表現できるが、現代語ではできないと指摘している。まさにその通りである。だが、この4点は覚えなければならない例外なのであろうか。これらは、
「発話は、自分がイメージした表象を受け渡すものである。」
という現代語に特徴的な性質によって説明可能である。これこそが森山氏の指摘する「自己定位」の作動する原理である。現代語では、自分のイメージを受け渡すことが優先され、それに先立った身分関係などのいわば社会的な規範が後回しにされる。ソシュール言語学の用語を使うと、ラングよりもパロールが優先される、あるいは従来は記録されなかったパロールが、文献上に積極的に記録され、話し言葉である場合も議論の対象となるようになったともいえよう。
古文では「帝、(東宮に)文奉り給ふ」などと補語が下位である場合でも謙譲語を使った表現が可能である。帝も東宮も、話者よりも上位であるという社会的な規範が絶対であるからである。だが先の菊池氏の挙げられた例の場合、
例6×「社長が部長をご自分の別荘にご招待したそうです」
社長の動作を、敬意がこもった動作として話し手がイメージできない。だから、謙譲語では表現できない。また、
例9 犯人は先生に脅迫状をお出しした
と悪いことには使えないが、その理由もこの原則から導き出すことができる。脅迫状を出すとの悪事を、敬意をこめて表象するなどありえないからだ。
また、よく知られるように、時枝誠記が
例11 〇「奥様はお出かけになりました」
という女中の例を挙げて述べている(注13)ように、身内に対して使う場合もある。一般に、身内に対して
例12 私の父がおっしゃっていました
などと敬語が使えないのは、発話は、自分がイメージした表象を受け渡すものであるから、私の父をあなたも尊敬せよと言っているかのように響くからであろう。だから、「私の父が申しておりました」のように表現しないといけない。しかし、時枝氏が挙げている女中は、奥様一家を代表して発話する立場にはない。使用人として取り次ぎをしているだけで、奥様とも客とも人間関係はない。だから、「奥様はお出かけになりました」という敬語付きのイメージを発話しても、「奥様を尊敬せよ」という押しつけには当たらないから、失礼にはならない。外国人に「日本の天皇は皇居に今いますか?」と聞かれるとする。上皇陛下ならいざ知らず、寸毫も天皇家を代表する立場にない我々が
例13 ✕「私どもの天皇の徳仁なら外遊中です」
などと言えるはずがないのと同じである。
こう考えると、後述するように筆者は敬語の分類として認めていないが、いわゆる謙譲語Ⅱを使った言い方で、
例14 〇「いよいよ年貢の納め時が来ました。三年ほど刑務所にお勤めに参ります」
例15 ✕「いよいよ年貢の納め時が来ました。三年ほど豚箱に参ります」
14は言えるが15は言えない理由も明確になる。「お勤め」は、義務を果たすという意味に当たり、服役することを謹んで述べた言葉である。だが、同じ事態でも豚箱に行くと表現すると、刑務所を人間が生活するところではないと見下げて評価しているのだから、「参る」という表現にはなじまないから、例14のように述べなければならない。
また、同じ人物が同じ状況で敬語を付けたり付けなかったりという問題も解決可能である。ある日、私はアルバイトしている予備校で同僚の講師が生徒に、
例16 〇「英語は私に、現代文は本間さんにお伺いしろ。必ず伸びる」
と述べているのを耳にした。この同僚は単に、先生―生徒 という上位者下位者の間で起きる出来事を敬意をつけて表象し、それを生徒に受け渡しているだけである。
だから、別の機会に、彼は、
例17 〇「英語は私に、現代文は本間さんに聞け。必ず伸びる」
と言った。ともに極めて自然な文章である。生徒の立場と同化して教師である自分に対して敬語を使うかそうしないかは、その場の状況や心理の問題であっても、敬語の中に語学的に内在する問題とは言えない。敬語に内在する問題であるのは、話し手である自分のイメージした表象を相手に受け渡すという点だけである。例16も例17もイメージした表象として無理がないものであるから、両方成立するというだけの話である。
ちなみに、これらの例は、敬意の方向を「話し手から動作を受ける人に対して」などとするのは、厳密にいえば限界があるということを示している。敬意の受け手がいるとしても、自分の表象(イメージ)の中に、あくまでも仮に設定された人物だとするのが正しかろう。
Ⅳ 謙譲語の新定義の提案
では、「群盲象を撫でる」状態に陥らないように、簡単な言葉ですべてを説明できるような帰納的な定義を考えてみよう。
まずは、学生のアンケートから読み取れた「尊敬語・謙譲語…は、それぞれ違う種類の敬語だから、謙譲語には尊敬する意味はない」という類の誤解を避けるために、敬語全体の定義が必要である。
言語表現とは、自分の表象を相手に伝えることであるから、敬語の第一原則は、
「敬語を使用することは、発話することである。敬語の対象に当たるものを謹みの気持ちを伴って表象(イメージ)し、聞き手に追体験させる言葉である。」
とするべきであろう。
「謹み」という言葉を使ったのは、「尊敬」や、「敬語の指針」が使っている「立てる」を使うと意味が狭くなりすぎ、その用語から逸脱する部分が出てしまうからである。また、単純な原理ですべてを説明できなくなるからである。見知らぬ人に距離を置くために敬語を使うなどのケースは「尊敬」や「立てる」と完全には適合しない。
敬語の第二原則は、いわゆる尊敬語の定義である
「尊敬語は、下位者でない者の行為を、話し手が謹んで表象(イメージ)する言葉である。」
たとえば、
例17 〇 先生は山田さんが握ったおにぎりを召し上がる。
なら、主語の「先生」は、そばを食べているだけであり、謹みの気持ちはない。表象する話し手が謹んで表象しているのである。
「下位者でない者の行為」という言葉がない方がシンプルでわかりやすい。実は筆者はこの言葉を外せる可能性を三カ月も検討したが、どんなに尊敬しても社会的に下位の者の行動を、
例18 ✕「我が子太郎を尊敬します。わが身の危険を顧みず、溺れている幼児を救出なさいました」
などと言えない以上、この言葉は外せない。
次に問題の謙譲語であるが、
「謙譲語は、上位者でない者の謹んで行う行為を、話し手が表象(イメージ)する言葉である」
とする。
例18 〇 山田さんはおにぎりを握って、先生に差し上げた。
謹んで動作を行ったのは山田さん。発話者には先生に対する謹みの気持ちはない。山田さんが謹んで行なった行為として描写しているのである.
この定義に従うと、先ほど挙げた
例4 ✕ 「社長が部長をご自分の別荘にご招待したそうです」
などという、補語が主語より下位者である場合は言えないことが分かる。また、
例19 〇「社長は、信仰する阿弥陀如来のお告げがあったので本願寺に参上した」
のように、上位者の動作に使うこともあるが、それも「例外」という言葉を使わずに説明可能である。文脈上、社長は、阿弥陀如来や本願寺の上位者であるとは言えないからだ。
学校のホームルームで担任の先生が生徒に、
例20 〇「これから、推薦入試の出願要綱について、ご説明します。みなさんの大事な進路の話ですから、良く聞いて下さいね」
などと、これはという大切な場面で生徒に対して謙譲語を使うことがよくあるが、「立てる」というより、「謹んで行う」ことに当たるであろう。もちろん、
例7 × 犯人は先生に脅迫状をお送りした
のように、悪いことに使えない理由も、細則として説明しなくて済む。
次に謙譲語Ⅱについてであるが、結論から述べると、敬語の分類として立てるべきではないと考える。
その理由は、
1 現代の口語表現では「参ります」「申します」「いたします」「おります」「存じます」など丁寧語と組み合わせて使われる。特に「おる」は、「敬語の指針」にも、謙譲語Ⅱの例として載っているが、標準語の口語では、単独で敬語として使用できない。
例21 ✕「社長、ずいぶん揺れましたね。(地震による)お怪我はありませんか? 停電もして心細いと存じますが、ご安心ください。私でしたらここにおる。」
などという現代語の文章はありえない。時代劇めいた「参る」「存じる」「申す」なども単独での使用も、もう死滅したといってよい丁寧語と組み合わせてはじめて使用できる表現から、丁寧語にはない性質を取り出すことは、意義あることだとは、到底、考えられない。
2 謙譲語Ⅱは、「参る」「申す」「いたす」「おる」「存ず」など例外ともいえる数少ない言葉である。「『参る』は『伺う』など、普通の動作の向かう先を立てない場合にも使う」などという、語誌の説明をすればいい。同じ尊敬語で「死ぬ」という意味を表す言葉も「帰天」はクリスチャンにしか使えない、「崩御」は天皇にしか使えないなどという語誌がある。数が少ないから、語誌として個別に説明すればいい。
丁寧語の一種。自分側の行為・ものごとなどを,話や文章の相手に対して述べる際に使われる連語。
とし、動作の受け手を敬っているとは限らない。また良くない行為や上位者の行為には原則として使用できない。
と補足して説明すればいい。
丁寧語と美化語については、「敬語の指針」で行われている、
敬語の第三原則
丁寧語は、話や文章の相手に対して丁寧に述べるものである
敬語の第四原則
美化語は、ものごとを美化して述べるものである
でよろしいと思う。
ただし、丁寧語の「丁寧に述べる」と「参ります」などいわゆる謙譲語Ⅱについて、今まで行われてきた「丁重に述べる」は、「丁寧」との区別が難しいので、表現を一本化したほうがいいと思われる。提案内容は、今少し検討したいと思う。
終わりに
「敬語を使用することは、発話することである。敬語の対象に当たるものを謹みの気持ちを伴って表象し、聞き手に追体験させる言葉である。」
という結論で、目下もっとも気になっている国語史の問題は「追体験」という言葉である。たとえば、『伊勢物語』には、「昔、男ありけり。女のえ得まじかりけるを、 年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、 いと暗きに来けり。」などという文章がある。駆け落ちなのか誘拐なのかはともかくも、起きた出来事はおよその想像がつく。だが、どのような男か、その男が女のどのような面に心惹かれたのか、さっぱりわからない。管見によれば、登場人物の内面を読者が追体験することが可能となったのは、近世の安永年間、葛蛇玉や円山応挙が、司馬江漢に先駆けて遠近法を絵画に導入したのと同時期に、上田秋成が「雨月物語」『夢應の鯉魚』にて主人公興義が体験したビジョンを地の文にて描写して読者に示し、その意味を読者に謎かけをした(注14)その前後から始まったことであろう。そして、登場人物の主観を表象し読者に受け渡す手法は明治期以降の欧米文学との出会いによって爆発的に広まった。今では、スリラーなら、犯人に追いかけられる主人公そのものの気持ちになって、手に汗を握って物語世界の中で迷路の出口を探して逃げ回るのは文学体験としてごく一般的なものとなっている。私は、この追体験こそが、敬語だけではなく、古典語と現代語を分ける大きな要素であると考えている。その、歴史的研究は大きな課題だといえよう。
また、語学的な問題も興味深いものがある。本稿では
「尊敬語は、下位者でない者の行為を、話し手が謹んで表象(イメージ)する言葉である。」
とし、
「謙譲語は、上位者でない者の謹んで行う行為を、話し手が表象(イメージ)する言葉である」
とした。
尊敬語と謙譲語は逆のものだととらえられてきた。「開く」(四段)と「開く」(下二段)は、動作の方向が逆であるが、尊敬語の「給ふ」は四段、謙譲語の「給ふ」は下二段であるから、尊敬語と謙譲語が逆だということは単なるイメージではなく、一種の規範なのかもしれない。
一般的には、動作をする人を敬うか受ける人を敬うかという、一つの動作の為手と受け手が逆である。動作を矢印にたとえるとその根本と先が反対であるという理解であるが、尊敬語と謙譲語とが何が逆であるかというと、動作の為手と受け手とが逆だというよりは、動作を謹んで行なうのか、動作を謹んで描写するのかという発話の際の敬意が対象の内側にあるか外側にあるか、所在が逆であると解釈したほうがおそらくは正確である。
この尊敬語と謙譲語の関係の問題は、稿を改めて述べたい。
(注1)学部入試、国語学の単位習得、教員採用試験などに敬語が出題されないことも多く、出題されたとしても古典の敬語がほとんどである。
(注2)生徒に挙手をさせて聞くと、進学校の古文の授業は八割が謙譲語を「受け手尊敬」と習っている。進学校ではない学校では、「へりくだる」言葉という説明が多くなる。後者の方が理解させやすいから、まちがいとわかっていてもあえて教えるのだという話もよく耳にする。
(注3)keigo_tosin.pdf (bunka.go.jp) 2023 920日閲覧
(注4)山田孝雄氏の「関係敬称」、金田一京助氏の「目的格への敬称」、馬淵和夫氏の「対象尊敬」、宮地裕氏の「謙譲語」、渡辺実氏の「受け手尊敬」など用語はさまざまであるが、「敬語の指針」のいう謙譲語Ⅰの定義とほぼ同様の趣旨で、錚々たる大家が謙譲語を論じている。
(注5)日本語敬語表現の史的展開についての研究 : 尊者定位重視の敬語から自己定位重視の敬語へ(1996年 奈良女子大学 博士論文)
(注6)菊池康人『敬語』第15版 東京 講談社学術文庫 258P 2019年
(注7)『学研全訳古語辞典』オンライン上に公開されているので、例文については割愛した。
(注8)数学用語として使う場合は、グラフのように連続して現われることがない、飛び飛びの数のこと。行列、順列、組み合わせなどで扱われる数。言葉の用法は言うまでもなく離散的ではない。
(注9)基本的な文献は、服部四郎 「意味の理論」川本茂雄・國廣哲彌・林大(編)『日本の言語学―第五巻意味・語彙』 (pp. 531-541)東京 大修館書店 1979年・国広哲弥 『意味の諸相』東京 三省堂 1978年 など。
(注10)アリストテレス『形而上学 上 』(第一巻第二章)引用した訳は、松原望氏「相関社会学」
https://qmss.ne.jp/interss/01/materials/sofia-b.htm (2022年11月29日参照によった。
(注11)辻村敏樹『敬語論考』東京 明治書院 1992年
(注12)高校の古典は、古典語であるから、謙譲語Ⅱはない。謙譲語Ⅰを単に「謙譲語」と呼んで教えている。
(注13)時枝誠記『場面と敬辭法の帰納的關係について』「國語と國文學」1938年 十五巻6号 65―66P
(注14)本間也寸志『公案としての「夢應の鯉魚」』(「東洋文化」2017年114号58‐69p)
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