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野呂先生の『合気道に見る共感力』論に便乗して

合気道に学ぶ共感力と日本のリーダーシップ

 日本が誇る武道の一つである合気道は、相手の力を利用しつつ調和を目指す哲学を基盤にしています。その独特のアプローチは、単なる戦闘技術にとどまらず、現代社会におけるリーダーシップにも深い示唆を与えてくれます。特に日本が直面するグローバルな課題や複雑化する国内問題において、合気道の『共感力』を活かしたリーダーシップが必要不可欠です。

合気道の基本哲学:力の調和

 合気道では、力と力が正面からぶつかり合うのではなく、相手の力を受け入れ、そのエネルギーを自らの目的に向けて転換することが重要視されます。この『力の調和』は、相手を否定するのではなく、むしろその存在や意思を尊重しながら、相互の利益を最大化する道を探るものです。

 この哲学は、リーダーシップにおいても同様に適用可能です。日本社会では、特に『空気を読む』文化が強調される一方で、リーダーには明確な指針と決断力が求められます。この矛盾を解消する鍵となるのが、合気道における『共感力』です。

共感力がもたらす調和型リーダーシップ

 リーダーが共感力を発揮することで、以下のような効果が期待できます。

多様な意見の調整
 日本の政治や企業では、多くのステークホルダーが関与し、それぞれが異なる利益や価値観を持っています。合気道の哲学を取り入れることで、相手の視点を尊重しつつ、調和を重視した意思決定が可能になります。

摩擦を機会に変える
 対立や摩擦は、組織や社会の成長において避けられないものです。しかし、合気道の技術が力のぶつかり合いを回避するように、リーダーは共感力を活用して対立を乗り越え、新たな創造的な解決策を見つけることができます。

信頼の構築
 共感力を伴うリーダーは、周囲の信頼を得やすく、長期的な協力関係を築きやすいです。これは、合気道が対戦相手に対しても敬意を払う精神を持つことと共通しています。

日本国の未来に必要なリーダーシップ
 日本は少子高齢化、経済の停滞、国際関係の複雑化といった多くの課題に直面しています。このような時代において、強引なリーダーシップよりも、共感力を持ち、調和を目指すリーダーが必要です。合気道の精神に学び、相手の力を否定せず、それを活かすことで、より包括的で持続可能な未来が描けるでしょう。

 合気道の教えは、日本だけでなく、世界のリーダーシップにも通じる普遍的な価値を持っています。それは、相手の立場に立つ共感力と、調和を重視する姿勢を通じて、より良い社会を目指すものです。合気道の哲学が、リーダーシップの未来を照らす灯台となり得るのです。

…と、このような野呂先生が期待しているような模範解答を書いていたのでは、『野呂先生の合気道の記事をお読みください』の一行で済む話です。

超偉人伝説 神様と呼ばれた男 合気道塩田剛三伝

 他にも『塩田剛三のビデオをご覧ください』でも話は伝わります。ここで野呂先生が期待しているのは、武智倫太郎の毒舌かブラックユーモアのはずなので、その期待に応えるように記事を書いてみます。

 日本のことを熟知している中国や韓国以外の海外で、外国人が日本人に期待するのは、『日本人は全員空手ができるのか?』ということです。これは1950~1960年代の戦後の日本文化ブームで広まった『将軍』『侍』『芸者ガール』『ハラキリ』といったイメージが、1980年代に再び注目されたことに由来しています。この時期には、テクノロジーやポップカルチャーが主に話題となる中で、空手や寿司といった伝統的な要素も引き続き認知されていました。

 さらに、空手が国際的に有名になった要因として、1984年に公開された映画『ベスト・キッド』の影響は見逃せません。この作品は、空手を通じた師弟関係や精神修行をテーマにしたもので、ミヤギ先生が主人公ダニエルに空手を教える姿は、多くの観客に強い印象を与えました。この映画をきっかけに、空手はアメリカを中心とした世界各地で一躍注目され、子どもたちが空手道場に通うムーブメントが広がりました。

 また、同じ1980年代には、スティーブン・セガールがハリウッドで活躍を始め、彼の映画を通じて合気道も注目されるようになりました。『沈黙の戦艦』(1992年)や『ハード・トゥ・キル』(1990年)といった作品で描かれるスティーブン・セガールの合気道スタイルのアクションは、それまでの派手な格闘映画とは一線を画し、相手の力を利用した流れるような動きが新鮮に映りました。これにより、武道全般への興味が広がり、空手や合気道といった日本発祥の武術が『精神性』を含む独自の魅力として認識されました。

 空手の世界では、観空大(カンクウ・ダイ)は、ザ・松濤館ともいえる空手の型ですが、それよりも派手な動きの雲手(ウンスー)は、外国人を相手に見せるのであれば、テッパンの松濤館系の型といえます。

国際松濤館・金澤弘和の観空大(分かる人にはわかるけれど、わからない人にはわからないでしょう)

空手之道世界連盟・矢原美紀夫の雲手(分かる人にはわかるけれど、わからない人にはわからないでしょう)

 それで、このような鉄板ネタの空手の型を披露(演舞)して見せると、私一人しか見ていないにもかかわらず、『やはり日本人は全員空手ができるんだ!』と驚かれます。すると、観客の中には武術オタクが大抵潜んでいるので、『ブルース・リーのワンインチパンチもできるのか?』と挑発してくる人が必ずいるのです。

 よほどの格闘技オタクでなければ見逃してしまうところですが、ブルース・リーの映画では、日本人は必ず悪役として登場し、日本刀を振りかざして弱い者いじめをしたり、空手家が束になってブルース・リーに襲いかかってもかなわない、という設定があります。

 他にも、昔の香港映画では、白人が悪者として描かれることが多く、チャック・ノリスのような肉体的な柔軟性も滑らかさもない『この人本当に空手をやったことあるの?』と思わせるような白人俳優が、悪役の空手家としてブルース・リーに倒されてしまうのです。

 このような日本人や日本の武術に対する偏見を解消するためには『ワンインチパンチができるブルース・リー最強説』を唱える方に対して、『私は1インチも必要なく、ゼロインチパンチでもできますよ』と言い、実際にゼロインチからパンチを繰り出して見せたり、合気道の技を披露して『これが日本人でございます』と表現すると、海外では非常にウケます。

 ここで合気道に興味を持った方のために、『合気道とは何か?』について説明します。

 合気の世界では、武田惣角、植芝盛平、塩田剛三の三名が『合気』を極めた人物として広く知られています。一方で、塩田剛三の実子である塩田泰久は、13歳から合気道を始め、養神館で普及活動を行う一方、父の塩田剛三に師事し修行に専念しました。しかし、残念ながらその技量は父の域には達しませんでした。

 但し、このことは塩田泰久を否定するものではありません。彼の実力は平均的な武道家をはるかに上回るものでしたが、塩田剛三との比較においては、富士山の十合目と一合目ほどの差があるだけのことです。

 これは、長嶋茂雄が歴史に名を残す野球選手である一方、その息子である長嶋一茂が、父親の遺伝子を受け継ぎ、しかも英才教育を受けながらも野球選手として大成しなかった例に似ていると言えるでしょう。

 現在、合気道には武田惣角、植芝盛平、塩田剛三のような『合気』を極めた人物は不在ですが、多数の流派が存在します。たとえば、光輪洞合気道、武田流中村派合気道、財団法人合気会、合気道養神会、心身統一合気道(氣の研究会)、楽心館、合氣万生道、合気道錬身会などです。他にも、一心館気道という『』を説いている合気道のようなものもあります。これらの団体が開祖のレベルに達していないからといって、それを否定することは適切ではありません。

 これらの中でも合気道の本流としての認知度が高いのは、合気道創始者・植芝盛平が設立した団体の系譜である、公益財団法人合気会です。

 武道は肉体的な技術のみならず、精神鍛錬、人生哲学、生きる指針を含む総合的な修行です。武術の天才が一生をかけて極めた技術を、1~2年の稽古で習得できるはずがないのは当然のことです。

 一方で、合気道の技には、一時間や一日の練習で身につけられる『手品』のようなものも多く存在します。これらを普及させ、『戦いを避けるべし』という理念を伝えることは、素晴らしい取り組みと言えるでしょう。

 私が合気道に関連して、唯一疑問を感じるのは、ハプキドーのみです。

武田惣角と合気道の源流

 合気道の歴史を語るうえで欠かせない人物が武田惣角(1859年~1943年)です。彼は『大東流合気柔術』を広めた武術家であり、この流派は合気道の技術的基盤となっています。武田惣角の生涯を追い、その教えが後の合気道にどのような影響を与えたのかを紐解いてみましょう。

武田惣角と大東流合気柔術

 武田惣角は、青森県の会津藩士の家系に生まれました。彼の武術の源流は、会津藩の家伝武術であった『大東流秘伝』に遡ります。この流派は、中世の武将である新羅三郎義光に起源を持つと言われ、代々秘伝として伝えられてきました。

 武田惣角は若い頃からこの武術を研鑽し、その技を極めたと言われています。特に、柔術の投げ技や関節技に加え、相手の力を巧みに利用する『合気』の技法が彼の特徴でした。また、彼はこれらの技を体系化し『大東流合気柔術』として教え始めました。

大東流合気柔術の普及

 武田惣角は、明治から昭和初期にかけて日本各地を回り、武術の指導を行いました。彼の教え子の中には、警察官や軍人、そして後の合気道創始者である植芝盛平が含まれています。武田は非常に厳しい指導で知られ、弟子たちは技の習得に膨大な時間を要したと言われています。

 特筆すべきは、武田惣角の技術が単なる力任せの柔術ではなかった点です。彼は『合気』という理念を重視し、相手の力や動きを利用して制圧する技術を体系化しました。この『合気』の概念こそ、後に植芝盛平が合気道を創始する際に核となる哲学でした。

武田惣角と植芝盛平の関係

 1920年代、植芝盛平は武田惣角のもとで大東流合気柔術を学びました。植芝は武田の教えに深く感銘を受け、熱心に技を習得しましたが、彼自身が持っていた剣術や宗教的な思想を融合させることで、独自の武道である『合気道』を生み出しました。

 植芝盛平は武田惣角の技術を基盤にしつつも『争わず、調和する』という哲学を加えました。この違いにより、合気道は武術の枠を超えた平和的な武道として発展を遂げたのです。

武田惣角の遺産

 武田惣角の技術と思想は、現在も大東流合気柔術として受け継がれています。この流派は、合気道に直接つながるだけでなく、伝統武術の保存という観点からも重要な役割を果たしています。また、彼の教えは、身体の使い方や心の在り方を重視する現代の武術やスポーツにも影響を与えています。

 武田惣角は、近代武術の発展に大きな足跡を残した人物です。彼の『合気』の理念と技術は、後世に伝わる多くの武道の礎となり、現代にも息づいています。合気道が『平和の武道』として世界的に知られる今、その源流にある武田惣角の功績を再評価することは、武術の本質を理解するうえで重要でしょう。

合気道の歴史とその魅力

 合気道は日本の伝統的な武道の一つであり、『調和の道』という名の通り、争いを避け、相手との調和を重視した技術と哲学を持つ武道です。その起源は比較的新しく、20世紀に創始されたものですが、歴史を紐解くと、日本の古武道や精神文化に深く根ざしていることが分かります。

合気道の誕生

 合気道を創始したのは、植芝盛平(1883年~1969年)です。植芝盛平は若い頃から柔術、剣術、槍術といった古武道を学びました。また、大本教という宗教に深く影響を受け、その精神性が合気道の理念に強く反映されています。

 特に植芝が学んだ柔術の一派である『大東流合気柔術』は、合気道の技術的な源流となっています。しかし、合気道は単なる武術としてだけでなく、相手を傷つけず、調和をもって問題を解決するという独自の哲学を持つ武道へと進化しました。

合気道の発展

 植芝盛平は1920年代から1930年代にかけて、自らの技を洗練させ、弟子たちを通じて広めていきました。特に第二次世界大戦後、戦争の教訓から暴力を避ける平和的な哲学が注目され、合気道は広く受け入れられるようになりました。

 1950年代には、合気道は海外にも広まり、多くの国で道場が設立されました。特にアメリカやヨーロッパで人気を博し、日本の武道文化を代表する存在として知られるようになりました。

合気道の特徴

 合気道の技術は、力ではなく相手の動きを利用して制御することに重点を置いています。このため、体格や筋力に依存せず、性別や年齢を問わず学ぶことができます。例えば、相手の攻撃を受け流し、その力を利用して相手を制する技は、身体だけでなく精神の調和も求められます。

 また、合気道の流派の大半には『勝ち負け』の概念がありません。つまり、他者と比較して勝敗を決めるような試合形式を持たず、競争ではなく修練と自己鍛錬を重視するのが特徴です。これは、合気道が平和と調和の哲学を追求していることの表れでもあります。

合気道の魅力

 合気道は単なる武術にとどまらず、自己成長の道でもあります。技を磨く過程で、礼儀や自己制御、他者との共存の精神を学びます。この点が、現代社会でも多くの人々に合気道が支持される理由でしょう。

 合気道はまた、ストレス社会の中で心身を整える手段としても注目されています。瞑想や深い呼吸法と結びついた稽古は、心の平静を取り戻し、日々の生活に新たな視点を与えてくれます。

 合気道は、植芝盛平の独創的な発想と、日本の武道や精神文化の長い伝統を融合させた成果です。現代でもその哲学と技術は多くの人々に影響を与え、世界中で愛されています。争いのない世界を目指すこの武道の精神は、混迷する現代においても私たちに重要な示唆を与えてくれるはずです。

武智倫太郎

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