怖くない怪談:妖怪イボンヌ
令和年間のことであった。四谷三丁目駅の地下鉄の階段には、無数の配管が張り巡らされた不思議な空間があった。その空間には、一風変わった言い伝えがあった。パリジェンヌでもなければタカラジェンヌでもない、『イボンヌ』と呼ばれる妖怪が夜な夜な現れるというのだ。イボンヌは華やかさも洒落た着こなしも持たない、ただのイボに過ぎない。しかし、その名を持つにはそれなりの理由があった。
四谷三丁目は渋谷や原宿、六本木のような若者が集う所ではなく、定年退職して行き場のない元大学教授の溜まり場として知られる五番町のJST(国立研究開発法人科学技術振興機構)の懐疑的な老科学者たちが集う場所として知られていた。
五番町の老科学者たちは、このイボンヌ伝説を半信半疑で受け止めていた。ある晩、勇敢な老科学者が隠居仲間の元教授たちと共に、その真偽を確かめようと四谷三丁目の森へ足を踏み入れた。月明かりに照らされた森の中で、彼らは焚き火を囲み、炭酸飲料を片手に楽しんでいた。
『イボンヌなんて、ただの噂さ』と笑いながら炭酸を飲んでいると、突然風が冷たくなり、空気が変わった。遠くから微かに聞こえる声がした。
『君の名は…イボンヌ…』
その声に驚き、老科学者たちは辺りを見回した。しかし、誰もいない。再び声が響いた。
『わたしは…イボンヌ…』
彼らは恐怖で凍りついた。その時、焚き火の炎が揺れ、次の瞬間、炭酸飲料のボトルがひとりでに動き出した。彼らは息を飲み、ボトルの蓋が勝手に開き、中の炭酸が泡立ちながら霧のように立ち上がった。そして、その霧は形を成し、青白い顔をした女性の姿となった。
『わたしの名は、イボンヌ…』彼女は囁いた。
イボンヌは炭酸飲料が好きで、死後もその愛情が冷めることはなかったのだ。彼女は老科学者たちに近づき、手に取った炭酸を一気に飲み干した。
『ありがとう…でも、もっと欲しい…』と彼女は微笑んだ。
懐疑的だった老科学者たちは恐る恐るボトルを差し出し、イボンヌは次々と飲み干していった。しかし、最後のボトルを開けた時、彼女の顔は一瞬の悲しみに覆われた。
『これで最後なの…?』
イボンヌは炭酸の霧となって再び消えた。五番町に戻った老科学者たちは、この出来事を同僚たちに話した。誰も信じなかったが、四谷三丁目の地下に入る時は必ず炭酸飲料を持って行くようにと忠告した。
その後、五番町の神秘主義の老哲学者たちが、試しに炭酸飲料を持って四谷三丁目の地下に入った。すると、イボンヌが現れ、彼らに微笑みながら炭酸を飲み干す姿が見えた。そして、彼女の声が響いた。
『君の名は…イボンヌ…ずっと、ずっと好き…』
老哲学者たちは、イボンヌが炭酸を愛する理由を知っていた。彼女は生前、ヒトパピローマウイルスという名のウイルスに取り憑かれ、それが原因で皮膚にイボができた。イボンヌと名付けられたそのイボは、彼女の人生を狂わせた。四谷三丁目の村人たちは彼女を嘲笑し、遠ざけた。彼女の孤独と悲しみは深まり、ついにイボンヌは液体窒素ブラスターで自ら命を絶った。
死後も炭酸飲料に執着する彼女の魂は、妖怪イボンヌとして四谷三丁目の地下鉄の階段に留まり続けた。階段の怪談という駄洒落ではなく、彼女の名には、自虐と私怨がたっぷりと込められていたのだ。
そして、四谷三丁目の伝説は一層深まり、イボンヌの愛した炭酸飲料は五番町の守り神として語り継がれるようになった。しかし、誰もが心の中で恐れていた。炭酸が尽きた時、イボンヌがどうなるのかは、誰にもわからなかったからだ。
夜な夜な四谷三丁目の地下に炭酸を持っていく老科学者や老哲学者たちの恐怖と哀れみが、妖怪イボンヌの伝説をさらに色濃くしていった。
ある晩、若い研究者が炭酸を持たずに四谷三丁目の地下に入ってしまった。その夜、イボンヌは現れず、地下は静かだった。翌朝、その研究者は夢遊病のような状態で地下鉄駅の改札口で無事に見つかったが、手にはなぜか新しい炭酸飲料のボトルが握られていた。それ以来、誰もが炭酸を持って四谷三丁目の地下に入ることを決して忘れなかった。
- 完 -
自己解説
イボの治療法には、-196℃の液体窒素を使用してイボを凍結し、破壊する方法の他にも、外用薬や内服薬を使用してイボを治療する薬剤治療、電気の熱でイボを焼灼する電気焼灼法、免疫を活性化する薬剤を使用してイボを治療する免疫療法、メスやキュレットを用いてイボを切除する手術的切除法などがあります。どの治療法が最適かは、症状や医師の判断によって異なりますが、炭酸ガスレーザー光を使用してイボの組織を蒸散させる術式もあります。
炭酸ガスレーザーの仕組み
炭酸ガスレーザー(CO2レーザー)は、二酸化炭素を媒体とするレーザー光を使用してイボの組織を精密に蒸散(気化)させる方法です。このレーザーは10.6ミクロンの波長を持ち、水分を多く含む組織に吸収され易い特性があります。イボの組織にレーザーを照射すると、その水分が瞬時に蒸発し、組織が気化して取り除かれます。この方法は高精度であり、周囲の健康な組織に対するダメージを最小限に抑えることができます。
イボンヌが炭酸飲料を好きな理由
イボンヌが炭酸飲料を好む理由は、彼女の生前の経験に深く関係しています。イボンヌは生前、ヒトパピローマウイルス(HPV)によって皮膚にイボができ、そのために村人たちから嘲笑され、孤立していました。彼女はその孤独と悲しみの中で、唯一の慰めを炭酸飲料に見出しました。
炭酸飲料の爽快な刺激とシュワシュワとした感覚は、イボンヌにとって現実の苦痛から一時的に解放される手段だったのです。彼女はその刺激を楽しむことで、自分の置かれた辛い状況を忘れることができました。炭酸飲料は、彼女にとって心の安らぎと喜びの象徴となったのです。
死後もその愛情は冷めることがなく、彼女の魂は炭酸飲料に強い執着を持ち続けました。イボンヌが妖怪として四谷三丁目の地下鉄の階段に現れる際、彼女は生前の唯一の慰めであった炭酸飲料を求め続けます。彼女にとって炭酸飲料は、ただの飲み物以上の存在であり、生きていた頃の悲しみや孤独を和らげる唯一の手段であったのです。
こうして、イボンヌは炭酸飲料を愛する妖怪として知られるようになりました。彼女の物語は、哀しみの中でも小さな喜びを見つけることの重要性を示しています。そして、その物語が語り継がれることで、炭酸飲料を手にした彼女の姿は、四谷三丁目の地下鉄の階段に現れる不思議な妖怪として、今もなお人々の記憶に残り続けています。
武智倫太郎
イボンヌ・シリーズ
ノンフィクション
フィクション