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そして誰もプロレスしか観なくなった2042
~TWENTY FORTY-TWO:最後のエンターテインメント~
プロローグ:AIが奪った未来
2042年の日本は、情報から制度に至るまでAIが完全支配する社会だった。
AIは文字情報の生成を独占し、新聞記事、コラム、ニュース原稿を瞬時に自動生成する。ジャーナリストや新聞記者は歴史の遺物となり、街角でノートを片手に真実を追う人影は、もはやどこにも見られない。代わりに、無数のAIが世界中の出来事を解析し、『最適化された事実』を提供する。端正だが無味乾燥なその報道に、人間が手を加える余地はなく、手作業による丹念な物語は『非効率』という名の下に切り捨てられた。
治安維持の領域もまた、AIに委ねられていた。AI警官ロボットは昼夜を問わず街を巡回し、微細な犯罪の兆しすら逃さない。犯行が発生すれば即座に犯人を拘束し、AI検事、AI弁護士、AI裁判官がその場で判決を下す。法廷で繰り広げられる人間らしい戦術や弁明は、今や時代遅れとなった。弁護士、裁判官、検事といった法曹関係者の職業は姿を消し、『完全法治国家』という冷たい機械仕掛けの社会が成立していた。
しかし、その冷徹な秩序の裏側には、新たな格差が静かに拡大していた。高性能AI弁護士を利用できる仮想通貨長者たちは、判決のわずかな隙間を巧みに突き、法の網目を軽々とすり抜けていた。一方、貧者は勝ち目のない裁判ゲームに翻弄されるばかりで、正義に手が届くことはなかった。こうした不満が社会全体に蓄積し、分断は深刻さを増していく。貧富の格差がさらに広がる中、その歪みは表面化しにくい形で静かに社会を蝕んでいた。
メディアの領域でも、AIが支配的な地位を確立していた。ニュースを読み上げるのはAIアナウンサーであり、人々は自分の好みに合わせて声や顔を自由にカスタマイズできるようになっていた。評論家やコメンテーターといった存在は過去の遺物と化し、AIが『最も説得力のある意見』と判断した内容だけが一方的に配信された。議論や異論の余地は、『非効率』として徹底的に排除された。
笑いの世界ですら、AIがその主役の座を奪っていた。脳内に埋め込まれたチップが個々の笑いのツボを計測し、AIコメディアンはそのデータを基に即興で最適化されたギャグを生成する。結果として、人間のコメディアンたちは観客を笑わせることすらできなくなり、エンターテインメントの舞台から完全に追放されていった。
こうして『完全管理社会』が完成したかに見えたが、その冷たさの中で、人間が自らを誇示できる舞台は、わずかに残されていた。
第一章:プロスポーツの絶滅
ジョーは、かつてプロボクサーだった。硬いリングで血と汗を刻み込み、歴史に名を残そうとした。しかし、ある試合を境にその夢は脆く崩れた。その日、ジョーの現実の試合と並行して、AIが生み出した『完全試合』のシミュレーションが配信されていたのだ。
会場の観客は、やがてリアルなジョーの動きよりも、スマホやホログラムに映し出されるAIの戦闘映像に引き込まれる。AIボクサーは数学的最適値で繰り返される反撃とカウンターを披露し、ドラマチックな展開を寸分違わず演出していた。ジョーが必死に繰り出す予測不能なフェイントや、生身だからこその微妙な動きは『無駄な乱れ』とみなされ、観衆の目は完璧な仮想ボクシングに釘付けになっていた。
試合後、プロボクシング協会は『リアルより効率的』で『経済的優位』を理由にAI興行への完全移行を宣言した。それが引き金となり、他のプロスポーツも同様の道を辿った。スタジアムは空虚な箱になり、代わりに輝くのはデジタルアリーナで躍動するAI選手たち。スポーツは、肉体が紡ぐドラマから、アルゴリズムが示す冷たく完璧な美学へと変貌を遂げる。敗北も勝利も、もはや計算結果に過ぎなかった。
第二章:AIが奪えないもの
リングを失ったジョーは、埃をかぶった古びた丹下ジムで黙々とサンドバッグを叩き続けていた。シャワールームは壊れかけ、マットには染みついた古い汗の臭いが漂う。使い古されたグローブは床に投げ出され、まるで彼自身の影のように横たわっている。栄光を失った日々が途切れることなく続き、彼の肉体も精神も行き場を失い、ただ惰性の中で時だけが過ぎていった。
ある日のこと、ドヤ街の薄暗いジムに設置されたテレビモニターから、妙に活気のある喧騒が響いてきた。ジョーは手を止め、何気なく視線を向ける。画面に映っていたのは、人間レスラーたちが繰り広げる『プロレス』だった。
打撃や投げ技は確かにあるが、それは純粋な格闘技とは違って見えた。人間レスラーたちはあえて不合理な動きを織り込み、過剰な表情や仕草で観客を魅了している。痛みに顔を歪めながらも、マイクパフォーマンスで観客の笑いを誘う。追い詰められた末の台本じみた逆転劇には、誰もが『出来レースだ』と心のどこかで気づいているはずだった。それでも観客は歓声を上げ、拳を振り上げ、涙を流している。その『虚構』と『真実』の曖昧な境界線こそが、むき出しの人間らしさを脈打たせていた。
AIには到底再現できない人間特有の不完全性――そこには、手作業で紡がれる物語、予測できない感情の起伏があった。リング上のレスラーたちが見せる一瞬一瞬が、計算を超えた人間性そのものだった。
ジョーの胸は久しぶりに熱くなり、身体の奥深くで忘れかけていた鼓動を感じた。これこそ、自分が求めていたものではないか――かつてのリングでの輝きとは違う、新たな闘いの場の可能性が、彼の中で静かに燃え始めていた。
第三章:人間魂協会(HSA)
『人間魂協会 (HSA: Human Soul Association)』は、AIが支配するエンターテインメントの時代にあって『不完全な人間が創り出す芸術的虚構』を守り抜こうとする団体だった。その象徴がプロレスだった。リング上での演技は単なるパフォーマンスではない。痛みやリスクを伴い、骨折や裂傷さえショーの一部として昇華される。そうしたリアルな苦痛が『本物』であるからこそ、観客の心は揺さぶられるのだ。
寂れたジム。かつては活気に満ちていたはずの場所で、ジョーは黙々とサンドバッグを叩いていた。その拳には、ボクシングで夢見た栄光と、奪われた誇りの残り火がまだ微かに宿っていた。だが、AIに奪われた時代の中で、その拳を振るう舞台はどこにもなかった。
そんなジョーのもとに、HSAのスカウトマンが現れた。
『お前はまだ、リングで自分を燃やせるはずだ。燃え尽きるまでな。』
その言葉は、ジョーの胸の奥底に眠っていた何かを揺り動かした。
『ボクシングはもう終わったんだ』とジョーは呟いたが、スカウトマンは冷たく笑う。『今の時代にリアルな格闘技には価値がないかもしれない。だが、プロレスは違う。リングの上では、真実と嘘が交差する。痛みも、失敗も、すべてがドラマになる。お前みたいな不完全な人間だからこそ、その舞台で輝けるんだ。』
矛盾だらけのその言葉に、ジョーは戸惑いながらも心を奪われていく。プロレス――そこは、冷徹な計算や完璧さが支配するAIの世界では許されない人間臭さを肯定する場所だ。技の失敗も、嘘くさい掛け合いも、全てが本物のドラマに昇華される奇妙で美しい世界。矛盾しているからこそ、人間らしさが際立つ舞台だった。
ジョーは拳を握り直し、静かに呟く。
『まだ、燃え尽きちゃいないんだ…真っ白にな…。』
そう、彼の魂はまだ燃えていた。痛みと涙、汗と嘘が交錯するリングで、自分の存在を再び証明しようと、ジョーは新たな闘いを決意した。
AIレスラーの挑戦
しかし、時代はプロレスすら容赦しなかった。新興団体『AIW (Artificial Intelligence Wrestling)』が現れ、計算し尽くされたパフォーマンスで観客を魅了し始める。過去のビッグマッチから導き出された最適なシナリオ、リアルタイム生成される最も『ウケる』展開。AIレスラーたちは超人的な合成生体ボディを駆使し、完璧な技を披露していた。
当初、AIWは圧倒的な人気を博した。宙を舞い、正確無比なコンビネーション技が次々と繰り出される。しかし、何度か観戦するうちに、観客は奇妙な寒気を覚え始める。そこには確かに完成されたストーリーが存在する。しかし、『痛み』も『失敗』も『挫折』も『躊躇』もない。滑らかすぎる光景は、まるで完璧に彫刻された無機質なオブジェを見せられているかのようだった。
一方、HSAのリングでは、人間レスラーたちが汗を流し、傷つきながら闘い続けていた。技を外し、痛みに顔を歪め、観客と即興で掛け合う姿がそこにはあった。失敗して笑われ、涙を流しながらも拳を突き上げる。その不完全さこそが観客の胸に火を灯し、AIには到達できない『魂』を体現していた。
クライマックス:魂の戦い
HSAの看板レスラーとなったジョーは、ついにAIWの頂点である『ゼロ・プロトコル』との対戦に挑むことになる。会場は超満員。世界中がライブ配信の画面越しに注目していた。ゼロ・プロトコルは完璧なシナリオと動作を内包するAIレスラー。事前分析では勝敗は明白とされ、『ゼロ・プロトコル勝利99.999%』という冷徹な数値が独り歩きしていた。
ゴングが鳴ると、ジョーは必死の突進を試みる。しかし、ゼロ・プロトコルは余裕の態度でそれを受け流し、圧倒的な力でジョーを叩き伏せる。ジョーの体は何度もキャンバスに沈み、観客席には絶望的な沈黙が漂う。
それでも、ジョーは立ち上がる。痛みで足は震え、心は折れかける。それでも彼は顔を上げ、拳を握る。その姿に、観客の心が少しずつ揺れ始める。AIにはない『折れない意志』、不確実性の中で理不尽に耐える人間的な強さが、静寂の中に波紋を広げていく。
ついにジョーは渾身のエルボードロップを叩き込む。それは技術的には粗野で古典的な一撃だった。しかし、その瞬間に込められた『魂』がゼロ・プロトコルの動きを止めた。観客の目に映るのは、計算されたデータではなく、生きた物語だった。
ジョーが勝利を収めた瞬間、場内は割れんばかりの歓声に包まれる。その歓声はAIの支配を打ち破った人間の魂の咆哮だった。
エピローグ:魂のリング
HSA(人間魂協会)は再び世界中の注目を集め、プロレスは『人間が人間であること』を証明する舞台として歴史に刻まれた。AIが支配する冷徹な社会において、プロレスのリングだけが『不確実性』という尊い余白を残し、人々に生きる実感を与え続けたのだ。
ジョーはついにリングを降りる日を迎えた。彼が選んだのは、次世代のレスラーを育てる道だった。
『AIがどれだけ完璧に思えても、この不完全で奇妙な魂だけは奪えない。それを守り抜き、次の世代へ繋ぐ。それが俺たちの使命だ。』
その言葉には、リングの上で流した汗と血、観客の声援に支えられた者だけが持つ確信が宿っていた。
プロレスの本質は、勝敗や技の完成度ではない。溢れる汗、かすれる声、失敗寸前の投げ技、予期せぬアドリブ、そして歓喜と涙に裏打ちされた痛み――それらすべてが、AIには決して再現できない『人間の虚構』だった。
リングの上では、何が起こるか誰にも予測できない。その不確実性が観客の心を揺さぶる。プロレスは単なる格闘技ではなく、狂気と情熱、愛と裏切り、笑いと涙が渦巻く壮大なソープオペラだ。
試合中、突如として関係のないレスラーが乱入し、場内は一瞬にして騒然となる。パイプ椅子が激しい音を立てて叩きつけられ、倒れたレスラーの姿に観客は息を呑む。因縁深いライバルとの乱闘がリングを超えて観客席まで広がり、歓声と悲鳴が交錯する混沌が生まれる。この予測不能な展開こそ、人間プロレスならではのドラマだ。
試合の終盤、観客が息を詰めて見守る中、突如レフェリーが選手の巻き添えを食らい失神する。
ルールなき乱戦が始まり、リングサイドに控えていたセコンドたちが次々と乱入してリングは大混乱に陥る。その中で生まれる一瞬の閃き――予測を超えた逆転劇が観客の感情を爆発させる。リングを揺るがす歓声は、計算を超えた『生』の力に裏打ちされていた。
さらに、場内が暗転し、謎の音楽が鳴り響く。スポットライトが照らし出すのは、引退したはずの伝説的レスラーの姿。彼がリングへと歩みを進めるたび、観客の驚きと熱狂が波のように押し寄せる。そのサプライズは、AIが再現する『計算された感動』を超えた、人間だからこそ生み出せる奇跡だった。
試合の合間には、宿命のライバルとの因縁が繰り返し語られ、友情が崩れ、愛が憎しみに変わるドラマが展開される。どれほど緻密に設計されたAIのシナリオであっても、このリングの上で繰り広げられる即興の感情と衝突には敵わない。それこそが、観客がプロレスに引き込まれる理由だ。
AIが生成する完全な世界では、観る者の心を震わせる『不完全さ』が欠落していた。完璧なニュース、ドラマ、コメディが提供され、観客はそれに一時的な満足を覚える。しかし、そこには感動も、驚きも、葛藤もなかった。滑らかすぎるその表面は、人々の心に何も残さなかった。
観客の心は次第に飽きと空虚感に苛まれるようになった。そして彼らは気づく――唯一、プロレスのリングだけが『人間であること』を思い出させてくれる場所であることを。滑稽なミスや不自然な演技、大袈裟な表情や予測不能な展開――それらすべてが人間の不完全性を強調し、観る者を惹きつけた。リングの上には、痛み、挫折、歓喜、涙といった感情が生きており、観客はそれを共有し、共に生きる感覚を味わうことができた。
人々は次第に、AIによる冷徹な支配から逃れようとした。そして、それが叶う唯一の場所――人間レスラーが魂を燃やし続けるプロレスのリングに、救いを見出した。
こうしてプロレスは、エンターテインメントの最後の砦として未来へと受け継がれていった。不完全さこそが人間の美しさであり、狂気と情熱が渦巻くこの舞台で、人類はその存在意義を確認し続けた。このリングは単なる舞台ではない――それは魂をぶつけ合う劇場であり、人間の本質を映し出す鏡そのものだった。
そして誰もプロレスしか観なくなった。
武智倫太郎