大切な家族がいない場合は不道徳でいいのか
ある駅に降り立ったとき、「大切な家族を守るために、感染拡大防止に努めましょう。」みたいなアナウンスが流れた。じゃあ大切な家族がいない場合はマスクも手洗いうがいもせずに不要不急の外出をしてもいいのかよ。と思った。
壮大な言葉が苦手だった
「みんなのために」とか「絆」とか、「愛」「感謝」みたいな言葉がとても苦手だった。
それを感じられない人はどうでもいいのか、価値がないのか。と思ってしまうからだ。
運動会で勝ちたいと思わない子は、友達が欲しいと思えない子は、他の子に何か劣るのか。善悪の区別がつかないのか。決してそんなことはない。
ダメなものはダメだと言われたほうがずっといいなと思っていた。
なぜ変な場所に足を突っ込むのか
友達がヤバいコミュニティに属しているのを見た。
大学生はたまにそういうことがある。
ネズミ講だったり、新興宗教だったり、怪しさ満点のセミナーだったり。
それを見て、これらに騙されるかどうかは受けてきた教育の良し悪しではないのだと思った。何より寂しさが彼らをそうさせるのだと思う。
少し考えれば分かることに騙されてしまうのは、価値がありそうなコミュニティに属せると思うからだ。
寂しさを愛せるようになれたら
愛する家族や街がなくても、友達がいなくても、何のコミュニティに属していなくても、それを悲しさだけで捉えるのではなく、孤独も愛せたのなら、私達はもう少し気楽に生きれるのかもしれない。と思った。
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