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【読み物】帰郷 あるいは自意識の森

友達と遊んだ雑木林や小川、神社の境内など、懐かしい風景の数々。そのどれもに思い出があります。そうです、いぬは、10年ぶりに故郷の森に帰ってきたのです!

実家で近況報告もそこそこに、懐かしいそこかしこをあの頃は生えていなかった無精ひげを撫でながら散歩して回っていたいぬは、川縁にせっせとどんぐりを集める泥にまみれた、薄汚れたりすの姿を認めました。そのりすのことを、いぬは知っています。そうとも、10年前、かつていぬが中学生だった頃に、クラスのアイドルだったりすの女の子でした。

10年前、森にひとつしかない中学校に通っていた頃の話です。りすの女の子はクラスの男子たちの下馬評では1番手2番手とはいかなくても、3番手くらいには常にランクインするほどの存在で、言葉を選ばなければあるいは「手の届くアイドル」のような立ち位置を得ていたのです。当時いぬは冴えない茶番犬としてクラスに位置しており、給食の割り箸を鼻と口に挟み込んではクラスのひんやりとした笑いを得ていたような格好でした。けれどもいぬはそれでもいいと思っていました。余計な一言で空気を凍り付かせてしまった日に、十代特有の過剰に自意識がドライブして布団をかぶってジタバタとしてしまう夜、あるいは眠れない夜に深夜ラジオを聴きながら(おもにやまだひさしのラジアンリミテッドなど)世界の成り立ちとか考えない夜はありませんでしたが、クラスでは道化を演じてさえいれば、時折、りすの女の子も太陽のようにからからと笑ってくれるのでした。それが嬉しくてその当時は道化ポジに甘んじていました。

そうやって中学時代を過ごしていたいぬは、ある日りすの女の子を、ベタなことにも体育館の裏へと呼び出しそれまでの思いの丈を打ち明けたのです。りすの女の子は、小さく頷き、二匹は付き合うことになりました。中学時代を彼女の笑顔のために捧げたいぬにとっては、万感の思いでした。

しかし、幸せはそう長くは続きませんでした。中学を卒業し、地元の高校に通うことになったいぬとりすの女の子は、ほどなくして別れてしまいました。理由は、今となっては思い出せないのですが、部活が忙しいとか、ほかに好きな人ができたとか、まあその程度の理由だったのでしょう。自分がふられたことだけは覚えています。最後に「キスをしたのはいぬ君が初めてだったんだよ」と言ったときの彼女の震えた声だけが、今も耳の奥に焼き付いてはふとした瞬間に蘇ってくるのでした。

そうです。いぬが森を出たきっかけは、りすの女の子にふられたことに他なりません。絶対にあのりすの女の子よりも自分は幸せになる、ならねばならないと決めて、東京に出て行ったのでした。

森を出てからいぬは猛特訓・猛勉強の末に高校を卒業してから、都内でもそこそこ有名なドッグアカデミーに入り込みます。そこでも猛特訓。ドッグアカデミーに入りさえすればある程度の将来が約束されたと信じて疑わぬ周りのいぬたちからは、意識高い系と陰口を叩かれたりもしたけれど、そんなものいぬの耳には入ってきませんでした。なぜならりすの女の子よりも豊かな生活をし、りすの女の子が霞んで見えなくなるくらい幸せになるという明確な目標があったからです。

やがていぬはドッグアカデミーを卒業し、都内でも有名な渋谷のドッグカフェに就職をします。給料も悪くない、きちんと定時になれば帰れます。三軒茶屋から徒歩10分ほどの小さな部屋を借りてひとまずは、安定した生活ができるようにはなりましたがレースは続きます。ドッグカフェでは芸能界のスカウトが時折出入りしており、役者犬デビューをかけて、周りのいぬたちとの熾烈な争いが日々繰り広げられるのです。もし役者犬として芸能界デビューを果たすことができれば、今の生活では考えられないくらい豊かな生活を送ることができます。食べたいものはなんでも食べられますし、今よりもずっと広い家で暮らすこともできます。もちろん、眩いばかりのメスいぬたちも放っておかないことでしょう。そして、故郷の森のテレビでもきっと活躍しているようすが映るはずです。あわよくばりすの女の子からLINEが来るかも分かりません。そうなったらいぬは、過去に自分がそのようにされたように華麗にフってやるのです。そんな日のことを夢見ながら、いぬは脇目も振らずに訓練に勤しみました。

そうやって2,3年ほどドッグカフェでの下積みを経て、小さなプロダクションに入ることに。初めての映画撮影の仕事も入ったところで、準備も兼ねてすこし暇ができました。その先の今が、今だったのです。

女の子のりすを見たとき、この10年に起きた様々なできごとが、いぬの胸に去来しました。この10年、とにかくしんどかった。じぶんのもつ大きな理想と現実とのギャップにいつも悩まされていました。時には誰かに陰口を叩かれもしたし、自分と年齢のそう変わらないいぬがハチ公の若い頃役を勝ち取って映画に出て、世代随一の天才と囃し立てられているのを見ても、じぶんはひたすら指をくわえて、今歩いている道がどこに続いているのかも分からぬまま訓練に訓練を重ねるより仕方がありませんでした。それでもなんとか今日までやってこられたのは、りすの女の子よりも絶対に幸せになるという「ダンコたる決意」があったからです。

いま、眼前でどんぐりを拾い集める彼女にも、きっと彼女なりの10年があったのでしょう。その10年間を、いぬには想像することもできませんでした。なぜならば記憶に残る10年前の姿からは想像もできないほどりすはとても見窄らしい姿になっていたからです。あのころ、誰もが羨んでいた艶のある栗色の毛には随所に白髪が混じっていますし、あのころいぬと繋いだ白くて柔らかな手はひどくぼろぼろになっていました。

その時、一匹のきつねがりすの女の子に近づき、どんぐりの拾い集める彼女の頬を張りました。きつねの怒声が森に響き渡ります。彼女は只管に謝っているようでした。いぬは出張って行こうかと逡巡しましたが、思い留まりました。いま出て行ったところで、事態を好転させる自信がなかったからです。

どう見ても不幸そうな彼女を目の当たりにしたいぬは帰りしな、「勝利」の二文字が頭に浮かぶと同時に狼狽えていました。いぬは彼女が霞んで見えるほど幸せになるようにと願って止みませんでした。10年前にいぬが思い描いていた形こそ違えど、りすよりも幸せになるという目標を、結果として、果たせたと言っても良いでしょう。10年前の当初の見立てでは、彼女を見返すことができた暁にはドーパミンか何か知らんが脳から何かが出てきてこれ以上ないくらいの達成感と快感を味わうつもりでした。しかしいぬはなんだかひどく虚しい気持ちになってしまいました。このささやかな復讐を10年越しに果たしたと言える、記念すべき瞬間に立ち会っているにもかかわらず、いぬはなんだか心にぽっかりと穴があいているような気持ちを覚えたのです。どうしてなのかしばらく考え、いくつかの仮説が浮かびましたが、そのどれもがどうでも良く思え、目の前が真っ暗になってしまいました。こんなりすの姿など見たくはなかった、いぬは、とても怖くなりました。あと何日か後には街に戻り、映画撮影の準備やらなにやらが待ち構えています。しかし、街に戻ってから、いままでと同じような想いでやっていける自信がなくなってしまったのです。自らのモチベーションを他人に託し続けた、その果てが、今なのです。

いぬは、りすの背中を追いかけていた暮らしの中で出会った人やもののことを思いました。苦心してありついた自身の担当マネージャー、共に競い合い励まし合う同僚のいぬ、そしてアカデミーの頃から自らの夢を応援し支えてくれるマルチーズの女の子。今の成功は決して自分の力だけのものではなかった、手垢だらけの言葉だけど、心からそう思いました。自分はただラッキーだっただけ、努力もそれなりにしたけど、自分より努力をしていたけど未だ芽が出ていないいぬたちのことを何匹も知っています。そのとき、いぬは初めて彼女の幸せを祈りたいと思いました。あれだけ憎み続けた彼女に対して、初めて、幸せになってほしいと思ったのです。10年もの間彼女を憎しみ続けた自分がこんなことを思うのはなんだかおかしな話だと自分でも思います。だけど、彼女の笑顔が見たいと願ってやまなかった中学時代は、毎日が宝石みたいに光っていた。その先の未来はやっぱり、同じようにぴかぴかに光る宝石みたいなものであってほしいと、いぬは思い直したのです。ほんとうに、そう思ったんです。心からそのように思えたとき、なんだかいぬは、自分の中の青春をひとつ成仏させられたような、そんな気持ちになったのでした。

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さんし
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