見出し画像

香水

プルースト効果ってあるじゃないですか。ふとした拍子に懐かしい匂いを嗅いだ瞬間に記憶の蓋が思いがけずパカパカ開くみたいなやつです。五感の中でも唯一匂いだけが脳のメモリにあたる部分に直接働きかけるので、人間の感覚の中でも嗅覚が最も記憶に残りやすいっていうことなんですけれども。


昔、いい雰囲気だった女の人に本を貸してあげたら、香水をつけて返されたことがありました。これもプルースト効果を狙って自分を強く印象づけたかったってことなんだと思うんですがね。


いい感じの雰囲気だったとはいえ、さすがに他人の本に匂いをつけて返されたらちょっとムカついたんですが、嗅覚と記憶にまつわる話をする際には必ずこのエピソードを披露しますんで、結果的にはおれの中でこの出来事が非常に強く印象づけられてしまったってことですよね。悔しいなと思います。


おれは、日頃香水をふりまいて過ごしているんですけどね。いいにおいだと気持ちがいいですから。香水っていってもあれですよ。焼肉弁当の匂いがするやつですよ。炭火焼きのやつですけど。いいにおいだなーって思って使ってたんですが、とうとう先日使い切ってしまいました。

それで、また買いなおそうと思ってネットショップに行きますと、値段が1.5倍くらいになってたんです。以前買ってからそれなりに時間が経っていますんで、値上げの影響を受けたってことだと思うんですがね。

クーポン券を使わなかった時の牛角の匂いなので、元々の値段も決して安いものじゃなかったんで、ちょっとさすがに高すぎるなと思っていたところ、4〜5年前に使っていた香水も一緒に売られていて、そっちはあんまり値段が変わってなかったんです。こっちは手頃だしいいにおいだった気もするし、久しぶりにこっちを買ってみようかなってことでポチったんです。香水っていってもあれですよ。こっちはとんこつラーメンの匂いがするやつですけどね。しかもよりによって博多風の匂いがするやつですけれども。

それで、久しぶりに届いた香水を振りまいてみたら、記憶の蓋が一気に開いてですね。4~5年前当時の、まだコロナも流行っていなかった頃の思い出なんかが一挙に押し寄せてきました。20代前半〜半ばにかけての無敵だった時代ですよね。「アラサーになっちゃったぜ〜」などとチョケながらも満更でもない感じの時代ですよね。

ただ、妙なのが自分が当時身につけていた匂いなのに、どうも自分のものではないような気がしてきたんです。何か遠い昔に付き合って別れた人のもののような、「存在しない恋人の匂い」のような気持ちがしてきたんです。「花束みたいな恋をした」の読後感に近い感情というか、なんというか。二度と戻らない無敵時代への感傷とは明らかに違う謎の喪失感をおぼえたのです。


記憶の蓋を刺激する匂いは、たいていは自分のものではなく他人あるいはそれにまつわる物体の匂いです。懐かしい故郷の匂い、学び舎のかびくさい匂い、当然、昔の恋人の匂いもそうですよね。瑛人もドルガバのとんこつラーメンのせいで昔の恋人の記憶が揺さぶられている様を歌っておりました。結構頻繁に思い出してそうだな!とんこつラーメンは結構離れたところまで匂いますからね。あとドルガバのとんこつラーメンってなんだよ。香水をふりまいているということを話すのが少し照れくさくて嘘で塗り固めた結果、瑛人にも被害が及んでしまいました。


この他人の匂い感の正体は分からないんですが、ともあれ、しばらくは存在しない昔の恋人の記憶をチラつかせながらこのとんこつラーメンこと香水をふりまく生活になるわけなんですが、やっぱり改めて考えると、あの時おれの本に香水かけて返してきた女めっちゃ腹立つな。エピソードトークとして活躍している現状にも腹が立つわー!なんなら東野圭吾が新刊出すたびに一瞬思い出されるのも腹が立つわー!『手紙』を貸しました。そんな感じです。


いいなと思ったら応援しよう!

さんし
拙アカウントは皆様からのあたたかいご支援によって運営されています。心を寄せてくださる皆様の貴重なお気持ちを価値高いものとして、今後ともより質の高いコンテンツ制作に励んでまいります。