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短編小説「取り付け騒ぎ」

 銀行支店長の笹川 正臣まさおみは、息子の拓海たくみと朝食を取っていた。日曜日の朝は一緒に食事する約束だ。

 目玉焼きを頬張りながら、拓海が父親に尋ねた。

「お父さん、銀行のお金って、みんなが一度に引き出したらどうなるの?」

「うーん、そうだな」

 正臣は食事の手を止めて考えた。

「例えばね、拓海が百円持っているとするよ」

「うん」

「その百円を銀行に預けると、銀行は八十円くらいを家を建てたい人やお店を開きたい人に貸すんだ。でも、もし拓海が急に百円全部引き出したくなったら、銀行は困っちゃうよね」

「あ、そっか。だって八十円は他の人に貸してるんだもんね」

「そう。だから、みんなが一度にお金を引き出そうとすると、銀行は大変なことになっちゃうんだよ」

「へぇ~、そうなんだ!」

 拓海は目を輝かせていた。


 その日の午後、正臣はスーパーに立ち寄った。レジ前で主婦たちが小声で話している。

「豊川銀行、大丈夫かしら」

「ネットでも噂になってるわよ。預金が払い戻せなくなるかもって」

正臣がその話に眉をひそめたとき、カバンの中のスマートフォンが振動した。


 夜、支店で緊急会議が開かれた。

「堀江さん、現状について報告して」

 副支店長の堀江が青ざめた顔で報告する。

「SNSで、当行の経営危機に関するデマが急速に拡散しているんです」

「私も昼間、そういう噂を耳にしたが……具体的な内容を説明してくれ」

「『豊川銀行破綻か』『預金者に払い戻し不能の恐れ』といったハッシュタグが急上昇しています。動画共有サイトでは、ATMに殺到する人々の映像が拡散され、パニックを煽っています」

「なんだって?対策を急がないと」

「はい。明日は月曜日、開店と同時に預金者が殺到する可能性があります」

 正臣は額に手を当てた。まさか朝、息子と話していた状況が現実になるとは。集まった管理職たちもそれぞれ不安そうな表情を浮かべている。

「分かった。まず、本店に連絡を取り、全支店での現金確保の体制を整えよう。それから、広報部と連携して、メディアへの対応方針を決定する。本店のSNS対策チームとも密に連絡を取り、デマの拡散を防がなければ」


 翌朝、支店の開店前から長蛇の列ができていた。正臣は頭を下げながら、順番に対応していく。

「お客様にはご心配をおかけして申し訳ございません。当行の経営に問題はございません。預金は全額保護されております」

 列の中から声が上がる。

「でも、ネットではみんな不安がってる」

「確かに噂は聞きました。しかし、それは事実無根のデマです。当行は日本銀行や金融庁の監督下にあり、健全な経営を維持しています」

 正臣の冷静な対応に、少しずつ人々の不安が和らいでいく。

 その時、列の最後尾で見覚えのある姿を見つけた。

「拓海!?」

 息子の拓海が、両手で段ボール箱を抱えている。

「お父さん、これ、僕の貯金箱!」

 拓海は箱を開けた。中には、彼が長年貯めてきた小銭や紙幣が詰まっていた。

「みんなが引き出すばっかりじゃ困るでしょ?だから、僕は預けに来たんだ」

 その言葉を聞いた列の人々が、次々と振り返る。

「そうか……私たち、取り乱していたのね」

「子供の方が、よっぽど賢いわ」

 徐々に列から離れていく人が出始めた。そこへ、地元の商工会議所会頭が姿を現した。

「皆さん、落ち着いてください。私共も豊川銀行さんに多額の預金をしていますが、全く心配していません。この銀行は我々の町の大切なパートナーです。大丈夫ですから、どうか落ち着いて行動してください」

 会頭の言葉が終わると、一瞬の静寂の後、あちこちで小声の会話が交わされ始めた。

「あの人、商工会議所の会頭さんですってよ。……間違ったことは言わないわよね?」

「ねぇ、私たち、デマに踊らされていたのかしら」

「銀行にもしものことがあっても、一千万円までは国が保証してくれるんでしたよね?」

「もしかして、時間の無駄じゃないの」

 行列に並んでいた人々や、その周辺で様子を窺っていた人々の、およそ半数が安心した様子で帰っていった。


 混乱が落ち着き始め、正臣は会頭のもとへ歩み寄り、深々と頭を下げた。

「本日は本当にありがとうございました。会頭のお言葉で、状況が一変しました」

「いやいや、私がしたことは些細なことだ。それより……」

 会頭は拓海に近づき、優しく頭を撫でた。

「君こそ、素晴らしい行動をしてくれた」

 拓海は照れくさそうに頬を赤らめた。

「こんな立派な少年が私たちの町にいることを、本当に誇りに思うよ。支店長、息子さんをよく育てられましたな」


 一週間後、本店から表彰状が届いた。

「危機を乗り越えた功労者として……か」

 正臣は表彰状を眺めながら、静かに苦笑した。


 その夜、正臣は帰宅すると、リビングでテレビを見ていた拓海に声を掛けた。

「拓海、ちょっといいかな」

正臣は自室に拓海を招き入れた。

「なに、お父さん?」

「実はね、お父さんも拓海と同じ年の頃、似たようなことがあったんだ」

 正臣は、机の引き出しから一枚の古い新聞を取り出した。

『地方銀行を襲うかつてない危機、一少年の行動が転機に』

 その少年は、現在の笹川 正臣その人だった。記事の横には、父の笑顔の写真が載っている。

「へえ!お父さん、すごいんだね」

「いや、拓海の方がずっとすごいよ。お父さんは、おじいちゃんに言われてやっただけだからね」

 拓海は誇らしげに胸を張った。

「拓海、銀行のことやお金のこと、まだまだ学ぶべきことがたくさんあるんだ。しっかり勉強していくんだぞ。勉強したことは必ず将来役に立つからな。分からないことがあったら、いつでもお父さんに聞いてくれよ」

「うん、わかった。……僕、銀行でお父さんと一緒に働きたい」

「じゃ、しっかり勉強しないとな」

 父子は互いに微笑みあった。


拓海君は銀行に口座を持っていたのだろうか?
お父さんが支店長だもん、持ってるか

上記、お話を作っている過程で検索しました
大事になるまでの経緯が興味深いです。SNSは無くともデマは広がるんですね

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藍出 紡
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