ホン・サンス『3人のアンヌ』はなにもめざさない。
3人のアンヌ
ミステリーと呼ばれるものの限界は「答え」があることである。「答え」のために推理すること。「解明」なるその過程が、単純な快楽を保証する。ひとびとを夢中させる「謎解き」というゲームは、結局のところ「ただひとつの筋道」しか用意していない。コースを外れることが決して許されない「ハイウェイ」をいくら爆走したところで、なにも見出せない。スピードを出して当然の空間で、スピードを出しているだけのこと。
だったら、舗装されていない道でスピード違反をしよう。いや、車から降りて歩こう。道なき道を歩こう。草むらに分け入り、虫に刺され、沼地に突っ込み、濡れた足を引き摺りながら、それでも楽しく歩いていこう。
『3人のアンヌ』は、「答え」をめざさない。いや、そもそも映画というものは「答え」なんてものを、これまでに一度もめざしたことなどなかったのではないかと気づかせる。
フランス人女性が、韓国のさびれた港町に降り立つ。そこから始まる3つの物語。それぞれの主人公に与えられている設定は異なる。つまり、名前は同じ「アンヌ」でも別人のはずだが、演じている女優は同一で、特に芝居をチェンジしているわけではなく、衣装を着替えただけなので、パラレル・ワールドにも思える。けれども、構造のことなんて、どうでもいい。
各エピソードをつなぎ、リンクする幾つものファクターたちが、何ら「目配せ」を送ってこないことの、なんという風通しのよさ。どこにも辿り着かないことの、快適さ。わたしたちは、映画を歩く。歩くことができる。決められたルートなんてない。道草も自由だ。迷子になったっていい。知識も教養も技術も年輪もいらない。まっさらな自分で「けもの道」にダイヴしよう。微笑みながら観客のまなざしを全肯定する、屈指のフィルム。