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「お迎え渋谷くん」の京本大我は、まばたきをさせない。

 京本大我が初登場した瞬間、なんだろうこの求心力は、と思った。

 惹きつける力、集中させる力、特別なものを目の当たりにしたときのときめき、陶酔のがんじがらめ、心地よい金縛り。

 彼は、まばたきさせない。
 彼がまばたきしないのではなく、こちらにまばたきをさせないのだ。
 わたしたちは、まばたきすることを忘れて、ただ食い入る。見つめるだけの生きものと化す。
 まばたきをしないということは、まばたきができなくなるということは、つまり、我を忘れるということだ。
 まばたきを忘れたのではない。自分を忘れたのだ。

「お迎え渋谷くん」で京本大我は、人気俳優だが、歳の離れた妹を保育園に送り迎えしている渋谷大海(原作はあるが、名前の響きもどこか似ているため、京本大我のために描かれたキャラクターだと思ってしまう)を演じている。渋谷は恋をしたことがないが、恋を演じることができる。だが、ほんとうの‟きゅん”を知らないので、何か足りない、と事務所の社長は感じており、恋をしなさい、とけしかける。

 初回からして、才能と欠落の対比が主人公像を決定しており、抜きん出た能力と、その分欠けている何かの両方を、京本大我は完璧に演じている。そのあまりの完璧さは、観る者を全く疲れさせない。なぜなら熱演やら力演やらのはるか上空で、それは達成されているからである。

 奇妙な、しかし、どこか安堵してしまうような佇まいが彼にはあって、この魔法がふりかけられているから、あの求心力には圧がないのだと、ある時、わたしたちは気づく。

 奇妙な安堵は、主演映画『言えない秘密』でもナチュラルに体現されており、そういえば、どちらの作品も「秘密」を抱えている。

 寄り添いと、乖離。主観と、客観。

 京本大我の演技フォームは、こうした両極を、奇妙な安堵で結びつけることで説得力を生んでいる。そう、わたしたちは、誰かのことを愛しいと想う。だが、その誰かのことを理解しているわけではない。ときめきと、不安。その両方を抱えている。この真実を、彼は教えてくれるのだ。芝居を通して。

「お迎え渋谷くん」は、渋谷が恋によって、己の欠落を目の当たりにする物語であり、終盤ではかなり深刻な局面も訪れる。だが、あの奇妙な安堵は継続し、それゆえ、わたしたちは観つづけることもできる。

 魅力とは謎めいたものであり、魅了とは不可解な現象だが、京本大我の、どこか茫然と驚いているようにも映る、きょとんとした、あの眼球の佇まいは、わたしたちは、そのひとのことを何も知らないからこそ恋ができるという可能性を伝えている。

 だから、京本大我は、まばたきをさせない。

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