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福士蒼汰2024年の熟成。

15年後の再会を約束した男子高校生トリオ。約束は果たされなかったが、3人は巡り会い、交流は再開する。三十路突入。だが、全員未婚。結婚したい、したくない、恋愛もしたくない。考え方も性格も様々だが、現状を伝え合える友情はまだ継続している。

そんな基本設定から始まる「アイのない恋人たち」は、そこに同年代の女性4人を交え、楽観的でも悲観的でもない、グレーゾーンのリアルを物語る。平成版「男女7人恋物語」と呼べないこともない。時代は大きく変わったが、それでもここには、映像フィクションでしか描くことができないコミュニティというものが存在するからだ。

男たちはzoomで集い、女性たちはブックカフェで顔を合わせる。連ドラ特有のご都合主義もある。しかし、ドラマティックな劇性は皆無。コミュニケーションも出会いも、すべてスモールサイズで、夢がない。

とりわけ、マッチングアプリをフラットに捉えている点は画期的だ。つまり、マッチングで夢が叶うとも、またマッチングではない偶然に夢をかけろとも、言ってはいない。デジタルにも、アナログにも、依存しない。諦観も、無謀もない。ここに現代がある。

7人のキャラクター造形は比較的明瞭だ。大袈裟にしか自己を表明できない男。言葉足らずにしか自身を伝えられない男。こなれた自分を演じることで防衛している男。女性たち3人の、恋愛や結婚に対するスタンスはそれぞれ違うが、大きな期待も大きな幻滅も生じさせていない点が共通している。そこに、主人公と同級生で一時、交際もあった当時は学園のアイドルだった女性が、傍観者のようにも狂言まわしのようにも思えるポジションで加わることで、登場人物全員の彫りが俄然深くなる。ベテラン、遊川和彦ならではの悠然とした脚本術の賜物である。

元・学園のアイドルの悲哀を体現する佐々木希も素晴らしいが、第2話まで観た限りでは、主人公を演じる福士蒼汰の一切のデフォルメを放棄した芝居に唸る。多くの観客にとって、福士は映画でもドラマでも、ヒーローもしくはダークヒーローなどの、陰影のメリハリが効きまくった役の印象が強いのではないだろうか。だが、たとえば『旅猫レポート』や『ちょっと今から仕事やめてくる』などの映画では、本音を仕舞い込む情緒にえも言われぬ味わいのある演技を見せている役者でもある。

かつて新人賞に輝いたものの現在は泣かず飛ばず。牛丼屋でバイトしながら再起を狙う脚本家。いささかルーティンな人物像ではある。しかし、福士蒼汰の、余白をたんまり含んだ潤いのある芝居で、この人物への好奇心が醸成される。マッチングアプリで出逢った女性たちとアブアフェアを楽しみながら、決して深入りはしない。ある程度、ドラマや映画を観ている人なら、それが女性への、とりわけ母親への幻滅に起因していることは想像できるだろう。事実、そうなのだが、福士は理路整然としたキャラクターには落とし込まず、イノセンスとカムフラージュが鈍いハレーションを起こすような微細な芝居を、しかも明るく積み重ねている。

これはドラマ全体にも言えることだが、福士蒼汰は、人間の底辺にある「地味さ」にスポットを当てている。強さでも弱さでもなく、中庸の「地味さ」を大切に扱っている。それは、生活への希求と言い換えてもよい。

自分の脚本で誰かを感動させたい。書き手としての純粋な夢を諦めているわけではない。執筆時には自分なりに気合いを入れる。しかし、成功への固執はない。この現状とどうにか折り合いをつけながら、できれば大きく傷つくことを避けて生きていきたい。誰もが当たり前に願う「最低限の安心」。それはもっと単純に言えば「平穏無事な暮らし」だ。金銭や経済の話ではない。ただただ「普通の暮らし」を望んでいるだけ。そんな「地味さ」がごく自然に伝わってくるように、福士蒼汰はこの人物を演じている。

結果、浮き彫りになるのは、個性や魅力ではなく、淡々と日々をやり過ごしていく「地味な」耐性。しかし、この「地味さ」は平凡なわけではなく、人それぞれで違っていることに気づかされる。どんなにダウナーな日も、どんなにエモーショナルな日も、その人がその人である限り、手放すことのない、かけがえのない「地味な」リアリティ。

福士蒼汰の、この熟成をどうか見逃さないでほしい。人間固有の「地味さ」に輝きを与えるという、彼のひたむきな挑戦を繊細に感じ取ってほしい。

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