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はにかみの先にある虚無。レスリー・チャンにだけ許されること。

 初公開から30年。「さらば、わが愛/覇王別姫 4K」を、歌舞伎町タワーにある109シネマズプレミアム新宿で観た。

 フィルム上映も可能だというシアター8は、全75席と小さめ。それだけに、ラグジュアリーなミニシアターで映画を体感する密やかな贅沢がある。

 奇しくも、主演レスリー・チャンがこの世を去ってから20年。109シネマズプレミアム新宿の音響監修を務めた坂本龍一は、今年2023年に逝去。ゆったりと包みこまれるようなシートに身をうずめながらも、背筋がのびる。

 坂本が目指した音響とは「曇りのない正確な音」だという。彼自身が画面に登場し、コンセプトを短く伝える。坂本も、レスリーも、もうこの世にはいない。しかし、郷愁に絡めとられないように映画に向きあう。

 この4K版は、デジタル化された印象があまりなく、フィルムが持つアナログ感を「曇りなく正確に」引き出していると感じる。

 冒頭、ベースはモノクロームで、紅い色だけがのっているシークエンスがある。1993年(日本公開は94年。93年には試写で観ることができた)の時点では、さほど感じなかった映像効果が、21世紀最新鋭のスクリーンにはじわりと滲んでいる。紅は、血の色でもあり、本作の歴史背景を象徴する中国共産党の色でもあるが、そうした具体的な予兆だけではない、もっと大らかなフォームが、幕開けにふさわしい豊かな厚みとなっている。強いて言えば、舞台の緞帳。あの深い紅が、ここにはある。

 京劇の人気スタアふたり組が、激動の近代中国史もろとも奈落の底に堕ちていく。両者は「覇王別姫」という出し物を十八番としている。王を演じる先輩を、姫役の主人公は愛している。同性愛。先輩はヘテロセクシャルだから、せめて舞台の上でだけでも添い遂げ続けたい。一生、舞台役者としてコンビでありたい。この願いが、ひとりの遊女の出現で破壊される。

 4Kで再会する歓びが横溢するのは、レスリー・チャンが登場してからだ。丁寧に描かれる少年時代は、あくまでも名画を観ている感覚。

 人気スタアとして画面に姿を現すレスリーは、どこかぎこちなくはにかんでいる。そのはにかみの先に虚無がある。これだ。レスリー・チャンという芸術の魅と魔が、そこにある。初登場の一瞬、底なしの輝きを4Kが支えている。

 京劇の化粧をしていない、無防備な状態で、公の場にいるからこその、はにかみ。素顔でいることが耐えられないほどの、心許なさ。主人公は、京劇の舞台に立っている時、初めて生きることができる。それは、役者馬鹿だからではない。姫として王の前にいられるからだ。つまり、化粧をしている自分が本当の自分で、舞台を降りた自分は抜け殻。この倒錯と迫真。

 女ごころでも、男ごころでもなく、レスリーごころとしか言いようのない表情。その様子を、4Kは、あくまでも現在形で捉え、21世紀を生きているわたしたちに差し出す。

 坂本龍一による「曇りなき」音響によって届くレスリーの声もまた、恥じらいの繊細さが深くきめ細やかになり、一方で、激情に駆られる際の「崩れ落ちる小さなお城」のような悲鳴も、美しき断末魔と化して、永遠に耳にのこる。

 三時間の大作だが、実は大がかりな場面はほとんどなく、モブシーンもごくわずか。ロングショットに頼らず、あくまでも演者の演技を的確に捉える距離感で撮影されていたことにも気づく。メインはバストショットであり、これはあくまでも芝居を見せる映画なのだ。肩の震えが相貌と等価の記憶になる。

 悲恋の痛みから逃れるように、レスリーは阿片に溺れていく。京劇が、権力(日本軍、中国共産党共に)によって品位を剥奪され、芸術が踏み潰される。気高くあろうとすればするほど、崩壊の激化は急進する。絶望的なジレンマ。

 登場人物は最小限で、無闇な群像にしていない点がむしろ、映像と音響に集中できる。スタアを、そして演技を、しっかり噛み締めることができることこそ、4Kの醍醐味なのではないか。

 レスリー・チャンは劇中で何度も振り返る。その振り返りは、すべてニュアンスが異なり、速度も強度も微細に変化させている。彼は、決して歌舞いた演技をしない人だった。主人公が振り返るたびに、何かが終わりに向かっている。その推移もまた、4K体験ならではのグラデーションだ。

 ある時、彼は振り返ることをやめる。そして、ラスト。別な人物が振り返る。

 反復の、麗しい末路。

 映画にはレスリー・チャンにしか許されない行為があり、そして、わたしたちはそんなレスリーの所作を愛した。そして、彼の仕草は、これからも決して朽ちない。

 銀幕を見つめる者のこころが「曇らない」限り。映画は、何度でも新しくなる。

 技術の進化は、体験の深化だ。

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