言葉は、戦友であり鎧であり無数の死体である。小説「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
大作である。一行五十一文字、一ページあたり十八行、それが計四百七十五ページ。だが、読み終えた際の感触はむしろ軽快だ。ずしりと重い読みごたえではなく、幾つかの連作短編を通りすぎたときのような、すがすがしさがある。しかし、こうした読後感は物語がハッピーエンドで締めくくられているから、というようなことは意味しない。言ってみれば、ここに綴られていることに救いはもたらされない。救いなど何処にもない、にもかかわらず、すこやかである、という点こそ作者の筆力の証明であろう。
そもそもこれは、救済などもたらされるはずもないという地点から、あらかじめ出発している小説なのだ。かといって重い事態を重い文体で書き記す、ある種の愚直なまでに重厚な作品群からは遠くとおく離れている。覚悟を潔さのレベルまで濾過し、苦悩を顕微鏡で見つめることによって、感情の生きものである人間の可能性を発見していく、真っさらな肯定力が宿っている。
911で父親を失った九歳の少年が主人公。父の部屋に遺された花瓶のなかにひとつの鍵を見つけたことから彼は、その鍵が開けるはずの鍵穴をさがしだすために、ブラックーー鍵の入っている封筒にはその一語だけが書かれていたーーという苗字を持つひとの家を、一軒一軒訪ねていく。
あらすじを描けば、冒険や旅模様をイメージするかもしれないが、前述したように、ここには少年が外部と触れることで魂を回復していくなどという安直な救済は一切見あたらない。たしかに彼は多くのひとびとと出逢う。そしてそれは悪いひとびとではない。やさしさとかなしみを湛えたひとびとである。しかも鍵と鍵穴の邂逅も用意されている。もし読む者がこれを冒険や旅だと思いたいのであれば、それにふさわしい答えらしきものはある。けれども本作の真価がそこにあるわけではない。
この少年は知識欲が旺盛でひどく饒舌だけれど、同時に自分自身がどれだけ孤独なのかもわからないほど孤独であり、喪失と恐怖によって研ぎすまされた精神の刃を、無節操ともいえるユーモアに託して連打するだけではなく、現実に己の肉体を自傷する癖まで身につけてしまっている。早々に無神論者宣言をしてしまっている彼は、神にも他のなにかにも救いを求めない。救いを求めず、あくまでも考えつづける。考えつづけることでしか、自分は生きつづけられないとわかっているかのように。吐き出される言葉たちは、考えつづけるための戦友であり鎧であり無数の死体でもある。
全編がモノローグで進行していくこの小説は、少年の主観だけではなく、少年の祖父、祖母の手紙の形式をかりた独白を交えながら、複数の時代の悲劇を視覚化していく。
この作者の非凡さは、あらゆる悲劇を極小なものとして見つめていることである。「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という書名が体現するどうにもならない感覚そのままに、彼は極小の悲劇を描く。極小と極小の積み重ねからしか世界は生まれ得ないし、巨大だと思われるものもまた極小の集積でしかない。極小の悲劇と極小の悲劇の輪郭を重ねあわせることによって、人間それぞれがかかえるしかない極小の世界に光を当てていくのだ。光にはぬくもりがある。けれども誰かをなにかを救うわけではない。ただ、見守っている。だからこそ、この小説はすがすがしく、すこやかで、やわらかく、あたたかいのである。
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