言えない秘密。京本大我。
言えない秘密。というタイトルは、つくづく京本大我という存在の資質を的確にあらわしていると思う。
京本大我は近年稀に見るほど精緻な芝居をする人で、とりわけこの年代(1994年生まれの29歳)においては稀少価値と呼んでいいほどだ。
その綿密さ、その慎重さは、演じ手ではなく作り手の構えであり、おそらく彼は、役を演じるというより、作品の一部、もっと言ってしまえば、映画の中心部を担う意識で、あらゆることを構築しているのではないだろうか。
本作にはある仕掛けが施されており、本来それはギミックともトラップとも言えるものだが、京本大我が主人公を体現することによってわたしたちは、構造を構造と感じることのない無防備さ、翻弄を翻弄として気づくことのない素直さに辿り着く。
無論、京本大我は観客を騙しているわけではない。逆だ。最良のかたちで映画『言えない秘密』に没入するための導きとして、彼は居る。その優雅な幻惑性、その完璧な吸引性は、子供たちを彼方に連れ去ったと言われる伝説のハーメルンの笛吹き男を思わせるほどだ。
才能あるが故に悩めるピアニスト。と、まずは言えるであろう主人公が、音大でひとりの(謎の)女性と出逢うことから物語ははじまる。そうして、ロマンスらしきことが展開する。観ているうちにこれはどうやら普通のストーリーではないことに、わたしたちの無意識は(なんとなく)気づく。この(謎)と(なんとなく)を支え成立させているのが、京本大我だ。彼の美貌には、無意識に語りかけてくるものがある。
もちろんここで、この映画がどこに辿り着くか記すわけにはいかない。観てのお楽しみだ。しかし、ネタバレを封印するのは、オチを堪能するためではない。すべては京本大我の演技表現をつぶさに味わうために、知らないほうがいいことがある。本作の根源的なスリルは、俳優・京本大我のありようにある。間違いない。
初登場場面から、所在なさげな憂いを画面にあふれかえらせる彼。そのスクリーン的な潤いには、誰もがうっとりしてしまうだろう。下を向いても大きさが感じられる瞳が閉じられる時、観る者はさらにときめくことになる。加えて、振り返るというアクションがひたすら美しく、それらが渾然一体となった映画のムードに魅了されるまで時間はかからない。
とりわけ刮目せざるを得ないのが、眉間のしわ、いや、より正確に言えば、眉間のふたつの窪みである。芸術的なブラックホールと呼んでもよいかもしれぬその眉間の変幻で、京本大我はわたしたちをどこかに連れていく。思慮深さと、素直さ。頑なさと、チャイルディッシュ。右の窪みと左の窪みには、そんなふうに相反するものが仲良く並列しており、そのいずれもが主人公の個性=魅力として、サラウンド的に響きわたる。繊細で構築性が高い。精緻と呼ぶしかない。しかもそれが支えているのは(謎)であり(なんとなく)なのだ。眩暈すら呼びこむ神聖な表現である。
京本大我は、敬語的な芝居をする。カジュアルな親密さを演出するのではなく、折目正しく奥ゆかしい演技を丹念に積み重ねる。そのことによって、単に端正なだけではなく、彼だけの厚みが生まれる。たとえば、声を細めるという仕草にこれほど無限のヴァリエーションがあったことに、わたしたちは驚き、束の間、呆然とするだろう。彼は自身の身体を楽器のように扱い、正確なキーを連打する。
ピアニストという設定は、優れて批評的である。京本大我は弦楽器ではなく、鍵盤楽器だからだ。黒鍵と白鍵が織りなす、厳格で多彩で、禁欲的で無限の趣がある。弦のようにビブラートをかけるのではなく、ある時は軽やかに、ある時は強く、ノックしていくその清潔さが、彼の本領なのではないだろうか。
そうして築き上げられた風情は、小さなお城を想起させる。この映画でしか見ることのできない小さなお城。砂のお城にも思えるが、陶器のお城にも思える。その素材のテクスチャを指先で感じ分けることこそ、『言えない秘密』と題された作品の最終的な醍醐味である。
言えない秘密。京本大我。必ずもう一度、観たくなる。もう一度、観ることでこの俳優が精緻に張り巡らせた「演奏」のタッチを発見していくだろう。