見出し画像

俳優・井口理は、文学である。無名のカリスマとしての映画『ひとりぼっちじゃない』

 行定勲監督の『劇場』。カリスマ的な劇団主宰者を演じた井口理は、他の出演者とはまるで違う異彩を放っていた。主演の山﨑賢人と松岡茉優が、かなり作り込んだ芝居だったこともあるかもしれないが、井口は何もしないでただそこに居ることそれ自体が存在感となって、観る者のシコリになるような趣があった。
 彼がミュージシャンとしてカリスマ性があるから、かどうかはよくわからない。King Gnuの楽曲は何曲か聴いたことがあるが、井口のパフォーマンスについては全く知らない。だから、これから書こうとしているのは、あくまでも俳優としての井口理について、だ。
 仕事柄、カリスマと呼ばれる人たちに何度もインタビューしてきた。多少の違いはあるものの、ほとんどのカリスマは、自分のカリスマ性に無頓着であり、カリスマとして崇拝されることを無視している。無意識の黙殺。無我の鮮やかさ、すこやかさがあって、そのフォームは明るい異形だ。
 『劇場』の井口には、この真のカリスマにしか持ち得ない無意識の黙殺が敢然と漂っており、ごく僅かの登場であるにも関わらず、わたしたちを圧倒した。主人公、山﨑賢人が嫉妬する対象であることが痛い程、よくわかった。しかし、嫉妬される側は何も感じていないのだ。あの屈託のない黙殺には、静かで決定的なリアリティがあった。
 行定が初めてプロデュースを手がけた、伊藤ちひろの監督デビュー作『ひとりぼっちじゃない』で、井口理はいきなり主演者として銀幕に姿を現した。『劇場』の時とはまるで違う。だが、これも一種のカリスマではある。
 世界の誰からも認められてはいないが、あの人物は【自分が自分でいること】に一切、疑問を抱いていない。好きな女性に翻弄されたり、謎だらけの運命アクシデントに焦燥感を煽られたりはするが、自己を喪失することは決してない。本来であれば、コンプレックスの塊のように描かれ、そのコンプレックスを事細かに体現する【人間臭さ】を求められるだろう。しかし、『ひとりぼっちじゃない』は、そんな陳腐な作品ではなかった。一見、凡庸な人物に扮しているかに思える井口もまた、人間の非凡極まりない深層心理を表現している。
 ふてぶてしいのに透明。澄んでいるのにおぞましい。そのような主人公を、狂気を一切排した、無害な、そして無菌な男性像として構築している。それが結果的に、匿名のカリスマ性を可視化することになった。匿名のカリスマは、実に現代的なモチーフと言えるだろう。
 『劇場』におけるカリスマは、ある意味、普通のカリスマだった。なぜなら彼には演劇の才能があり、演劇の専門家にも、観客にも、大いなる支持を得ている。そのような戯曲家/演出家がカリスマとして屹立しているのは、ごく当たり前のことである。
 『ひとりぼっちじゃない』の無名のカリスマは、SNSの時代に増殖している【根拠なき自信】を有した者たちの一人、とも言える。では、ここでの自信とは何か。自分のペースで生きる、ということである。
 すぐにわかるのは、主人公ススメ(なんという皮肉で、批評的な名前だろう!)独特の歩き方。俯き気味に映るが、控えめというより、己の道のりをじっと見つめ淡々と進んでいく虫を思わせる。独立独歩のありようを、決して誇示することなく、生態のひとつのようにして、画面に定着させていく井口理の入念さはただごとではない。
 意中の女性、馬場ふみかにかなり気を遣っていることは一目瞭然だが、彼女との会話はひたすら横すべりしており、ダイアローグがモノローグと化している。噛み合わないが、そこにさほどの不満もなく、独り言をむしろ情感たっぷりに語る姿には、SNS的な孤立した真情も感じとれる。そう、彼は満たされているわけではないが、自身の欠落を欠落として感じる感覚を(おそらく積極的に)麻痺させているのだ。井口は、精緻なグラデーションで、ススメの心象を彩色している。
 破綻、あるいは転倒も、物語の展開として訪れるが、いわゆる巻き込まれ型の受動態でも、状況を破壊=進化させていく能動態でもない、ニュートラルでフラットな常態がキープされている。井口理がかたちづくる主人公像は、それ自体が文学的だ。これは、伊藤ちひろの、脚本家であり小説家であることからの文学性ではなく、井口が俳優として、すこぶる文学的な表現者であることに由来している。
 人間の主観を、どのように画面に息づかせるか。井口は、あくまでも寡黙に、マイペースで呼吸し、行動することで、彼の内部にある異次元のような【鼓動】の在処に、わたしたちを引き寄せる。大仰な素ぶりなど何もないのに、この映画を観る者は、その【鼓動】のすぐそばで耳をすますことになるだろう。
 気がつけば、この、他には類を見ない、珍しい生きものの、世界でたった一つの生態を愛おしく感じることになる。頑固なようで素直。屈折しているようで真っ直ぐ。慎重なようで無防備。混乱しているようでクリア。
 歯科医としてのキャリアもあり、女性にモテないわけでもない、少し少年ぽくて、夢みがちなだけに見えるススメ。その内面にある底なしの【渦】に、井口は彼にしか表すことのできないチャーミングな佇まいのまま、わたしたちを没入させる。この感触はフレッシュだ。
 新しい演技文体を有した俳優。おそろしくも可笑しい。ズレているのに真摯。熱はなくとも情はある。その全てが、文学的。俳優・井口理は、存在そのものが2020年代の稀有な文学である。

いいなと思ったら応援しよう!