2013年の俳優中居正広論

2013.8.4.執筆

俳優中居正広論

相田冬二



 あの「模倣犯」から既に11年が過ぎていることに、わたしたちはたじろがずにはいられない。「シュート!」を初主演と捉えると、彼はこの20年のあいだにわずか4本の主演映画しか残していない。このビクトル・エリセなみに寡作な俳優を前して、わたしたちが紡ぎ出せることばは果たして、この世界に存在するのだろうか? しかし、こうした絶望に向き合うことからしか、中居正広という存在について語ることはできないだろう。
 彼はドラマに主軸を置いているわけではない。21世紀になってからの連続ドラマ主演もわずか4作にすぎない。中居の主戦場は言うまでもなくバラエティ番組におけるMCにある。彼はかつて「SMAP×SMAP」のトークさえも、自分はグループのメンバーとしてではなくMCとしてそこにいる、と断言したことがある。では、彼は演じる場においてもMCーーつまり、マスター・オブ・セレモニーとして、振る舞っているだろうか。否。中居正広が、わたしたちからことばを奪うのは、彼の演技から方法論が見出せないからであり、むしろMC的な資質はそこであらかじめ解体されているといっていいだろう。
 マスター・オブ・セレモニー型の俳優は存在する。主人公をホスト役として捉え、共演相手をゲストに見立て、そのやりとりを「演技」として活性化していく。そのような場では、キャッチボールの術に長けた者が「巧い」とされるし、ある種の観客たちはそれこそが「芝居」と信じて疑わない。
 これは彼が演じてきたキャラクターにかかわることでもあるが、中居正広はこうしたキャッチボールーーすなわち、どのようなボールを投げて、どのようなボールを受け取るのかーーにまったくとらわれていない。逆に言えば、彼の演技は、いかなる球筋にも、いかなる球種にも、いかなるスピードにも還元されえぬボールとしてそこにある。誤解をおそれずに表現するならば、中居がピッチャーマウンドに立つ投手だとすれば、そのボールはいまだグローブのなかで握られている。わたしたちは、その見えないボールに吸引されているのだ。
 彼が一貫して、人間はひとりであるという現実を体現していることは無視できない。「模倣犯」と「私は貝になりたい」は実は同一の物語として見なすことが可能である。ふたりの主人公の「選択」を、わたしたちはほんとうに理解できていただろうか? 理解したつもりになっていただけではないだろうか? そのひとの孤独は他の誰にも理解できぬという残酷なテーゼへと、この俳優の演技は導く。ドラマ「白い影」でも「砂の器」でも事態は変わらない。彼は哀れな天才を演じているわけではない。わたしたちは同情する余地のない完璧な悲劇を目の当たりにするだけだ。その圧倒的な拒否感。
 中居正広は、キャッチャーからのサインに黙って首を振る。ボールは投げ込まれない。わたしたちは、その姿にただ見惚れていた。 



 ところが、中居正広をめぐる状況は2012年に急展開を迎える。
 彼は「ATARU」で初めて、そのボールを「見せた」のである。
 これは中居がこれまでに演じてきたコミュニケーション不全を生きる人物の最新形にして、究極のかたちと呼んでいいものであろう。ATARUの孤独は、はじめから誰にも理解されえぬものとして、そこにある。この設定によってシリーズは機動していくし、物語は躍動するし、ATARUはひとつの現象として存在しつづける。
 「ATARU」が、これまでの中居主演作と違う点は、キャラクターが拒絶ではなく受容として在る点だろう。
 ATARU=チョコザイは、最初から理解できぬものとしてーーたとえば「2001年宇宙の旅」のモノリスのようにーーそこにいるからこそ、周囲のひとびとは彼を理解しようとする。この、不可能を可能にしようとするまなざしに、観客であるわたしたちが加担しなれれば、ATARUは出現しないと言ってもいい。
 ここでの中居は、何も拒まない。わたしたちも含めて、理解しようとする者たちの視線を浴びつづける。その丸腰の受容こそが、ATARUが見せるありとあらゆる仕草であり声である。
 彼がここで何をおこなっていたかの詳細は述べない。それは見ればわかることばかりだ。彼の指先の動きも、英語とも日本語ともつかぬ第三の言語としての発声もすべて、わたしたちの移入を受け入れるための「型」である。
 野村萬斎によれば、狂言師は顔を「つくる」ことが禁じられている、という。狂言において、人物の心理はあらわされるものではなく、人物はすべて動きで表現されなければいけない。必要なのは表情ではなく、「型」であると。
 ATARUは涙を流す。しかし、彼の心理を、中居は決して描写しない。それをどう受け取るかは、すべてわたしたち見る者に委ねられている。そこにあるのは、理解できない孤独ではなく、理解できるかもしれない孤独である。拒絶から、受容へ。そのために、中居はATARUにふさわしい「型」を編み出した。前述したように、そこに表情はない。わたしたちがそこに表情を見るとすれば、無から有を「見出している」だけのことである。
 そして、それこそが、中居正広がほんとうにやりたかったことなのではないか。ずっと前から、彼はそう考えていたのではないか。



 植田博樹プロデューサーのこれまでの仕事、たとえば「ケイゾク」や「SPEC」を振り返るなら、「ATARU」もまた最初から映画への道のりが想定されていたと見るべきであろう。「ATARU」は、連続ドラマからスペシャルドラマ、劇場版と、3段階のステップを踏むことになった。ホップ、ステップ、ジャンプ。そして、中居正広は「劇場版 ATARU THE FIRST LOVE & THE LAST KILL」において、キャリア最高の演技を見せている。  
 連ドラが「型」だったとすれば、スペシャルドラマではATARUの「魂」の片鱗が垣間見えた。いまの中居正広にとっては、「型」も「魂」も同次元にあるのだろう。本来「型」は目に見えるものであり、「魂」は目に見えないものであるにもかかわらず、「型」から「魂」に飛び移ることにはまったく齟齬がなかった。なぜなら、「型」も「魂」も、受容が前提とされているからである。
 では、最新映画では何が行なわれているのか。わたしたちは、もう一度、ことばを失う。中居はここで受容の存在としてのATARUを徹底的に表現することで、「型」も「魂」も超えている。
 中居正広=ATARUはもはや、何もしていないようにさえ見える。「型」を完全に身につけ、「魂」をあらわにすることに躊躇がなくなった、無防備な存在としての彼は、ただそこにいるだけで、場を混乱させ、また、場を収束にも誘導する。あまりにも高速で回転する独楽は、ときに止まっているような視覚効果をもたらすが、それに近いかもしれない。
 わたしは映画「ATARU」に、豊かな静止を見る。中居正広の演技には鼓動が不在である。しかし、わたしたちは彼の鼓動を感じようとする。不在だからこそ、感じようとするのだと、たったいま、気がついた。
 タイトルには「THE FIRST」と「THE LAST」とある。最初で最後のなにかが、そこには刻印されている。

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