シチュエーションがハレーションを起こしている。『湖の女たち』の松本まりかについて。
松本まりかがここで演じているのは、豊田佳代という、変わったところがまるでない名前の女性である。匿名性が高いわけでも、極めて凡庸というわけでもない。適度に丸みがあって、女性らしさが姓にも名にも宿ってはいる。しかしながら、どこか地味で、一度逢っただけでは、この人の姿かたちと、この名前が完全に一致することは難しいかもしれない。うっすらそう予感させるほどに、豊田佳代という名前は、印象が薄い。
豊田佳代は、湖畔の介護施設で働く介護士で、同施設で起きた100歳の老人怪死事件の容疑者となる。彼女を取り調べることになった刑事、濱中圭介は、先輩刑事と一緒に別な容疑者を徹底的に追い込みながら、佳代に邪念を抱く。その邪念は、実は彼女が怪しいと思うが故に、彼女を支配しようと目覚める欲望でもあった。
濱中には妻子がいる。彼は父親になったばかりであり、より正確に言えば、妻が出産する前から佳代に劣情をもよおしていた。だから、濱中と佳代の倒錯的な関係は、刑事と容疑者という立場だけではなく、何重にも捻れて、おかしな結び目と成り果てている。
しかし、この屈折は濱中、つまり男側にだけ起きているものに思える。強引に言い寄ったのは、濱中である。強制的に、彼女を己に従属させた。ところが、松本まりかは、豊田佳代を一瞬たりとも、被害者のようには演じない。どう見ても、濱中=支配者/佳代=被支配者であるはずなのに、動揺しているのは濱中で、佳代は夜の湖面のように落ち着いている。乱れているのは男のほうで、女は平然としている。そんなふうに映る。
これは、濱中に扮した福士蒼汰のアプローチであり、佳代を体現する松本まりかのアプローチである。両者のアプローチが、そのような共犯関係を、つまりはありきたりの役割を演じ合う愚は犯すまいと、おそらくは暗黙知で契りを交わしているのだ。この演者同士の密約がもたらすスリルに、やられる。
その関係において、男は加害者であり、女は被害者に決まっている、と強弁する人は、いつの時代にも必ずいる。道ならぬ関係はもちろん許されることではない。だが、人は踏み外すのだ。踏み外すことで初めて解放される人も、中にはいる。人間関係とは、道義の範疇におさまるものばかりではない。無理矢理に見える関係が継続していく過程で、両者は変質しないとなぜ言い切れるのか。単なる抑圧だけで、関係性は続くわけではない。
とりわけ、人目を憚る、世を忍ぶ関係というものは、極端なかたちのシェルターとなり、特殊な安堵をもたらすこともある。これもまた、人間が創り出したものであり、それは情況とも言えるし、人情と呼ぶことだって可能である。秘められた関係性を、ある決め付けで語ること、そして断罪することは、人情を否定することであり、人間の自由や多様性を抑えつけることでしかない。
そうした情況や人情において、男女の、当初のポジショニングが変幻していくことは珍しいことではない。
濱中には、出発点への固執があり、佳代には、この関係がどんなふうに始まったかについての執着がない。ここでは、自然に訪れる変化に抗っているのが男で、溶け込んでいるのが女なのだ。こうしたズレもまた、映画の波動となり、作品の渦と化している。
あえて松本まりかの演技表現についてのみ述べる。豊田佳代はまず、濱中圭史の眼差しを平然と受けとめる。不躾な濱中の邪な視線に対してあからさまな嫌悪感を顕すことなく、“見られていること”に自覚的であり続ける。だから、濱中の唐突な接近や突然の来訪、一方的な抱擁を前にしても、戸惑いはあっても明確な拒否は生じさせない。
微細でありながら、根源的な野太さを感じさせる躰の動きに、多くの映画観客は見入るだろう。後退りながらも前進しているかのような生命力。ゆらぎは、ある。だが、華奢なはずの松本まりかの肉体は、たじろぐことなく、そこに屹立して、男を圧倒するのだ。
とりわけ鮮やかなのは、要所要所に挟み込まれる、彼女の横顔だ。廊下で濱中に急接近された時の横顔は、その目線がはっきりとは見えないからこそ、震えを超越した確たる魂のありように目を奪われる。車内での濡れた髪のままの横顔は、追い込まれているにもかかわらず神々しい眩さを湛えており、シチュエーションがハレーションを起こしている。
どうやら、松本まりかは、人物が置かれている情況や、そこからもたらされる人情というものを、雛形に当て嵌めるのではなく、はみ出させ、さらには解放していく、さざなみのような演じ手なのだ。
波光を思わせる女優。いつの間にか大きく間近に迫っているその輝きに、ただ面食らう。松本まりかは、いたいけである。だが、その裏側では、その彼方では、わたしたちが想像しえない、未知なる宇宙が膨張しているのだ。
どきどきする。
松本まりかが創り上げた豊田佳代の鼓動に、気がつけば呑み込まれている。
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