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だれのせいにもせず、正々堂々殺戮する『悪の教典』。
『悪の教典』
2012.11.7執筆
三池崇史の作品に接してこんな気分になったのは『極道恐怖大劇場 牛頭』以来だ。あれから約10年。まさか「再会」できるとは思わなかった。
前作2本が言わば「予告編」になっていたことに驚かされる。2月公開の『逆転裁判』に漂う、あらゆる物事への「ざっくばらん」すぎるありよう。6月公開の『愛と誠』に流れる、歌がゲンジツを加工/更新していく「ぐだぐだ」な心地よさ。それらは実は「チョイ見せ」にすぎず、すべて本作に帰結するファクターだったのだ。昔、『ギンギラギンにさりげなく』という曲があったが、『悪の教典』は「ぐだぐだ」で「ざっくばらん」。ゆるいのか、スッキリしているのか、容易に判断がつかない。おそらく、このふたつが同時にあるのだ。しかし、これは酒にたとえるなら、どぶろくを吞んでいたはずなのに、純米大吟醸の後味がある、ということで、通常であればとてもあり得ることではない。
ひとりの教師が、自分のクラスの生徒たちを、徹底的に殺戮してく。ただそれだけである。もはや、倫理的に許される/許されない、というレベルを超越した、図太い「開き直り」が胡座をかいて座っている。文明とは、人間とは、進化とは……などと気どった「批評」を企てても、たぶん無駄。で、それがどうしたの? と、聞き返されるのがオチだ。
そもそも主人公は狂っていない。病んでもいない。別にトラウマのようなものにすがって生きているわけでもない。大量殺人を「誰かのせい」にしたりはしない。そこが、とても健やかな印象を与える。社会が悪い、時代が悪い、大人が悪い、子供が悪い、病気が悪い……もう、そんな話は聞き飽きた。この教師には、すべて「自分がやってる」という自覚や手応えがある。つまり、まったく逃げていない。正々堂々と、人を殺している。誤解を承知であえて書くが、その様は「健康な身体に健全な魂が宿っている」と形容しても、まったくおかしくはない。
誰だって殺されたくないし、殺したくない。ほとんどひとはそうだろう。だけど、それがどうしたの? と、この映画は首を傾げている。しかもその姿が決してクールではなく、大らかで素朴なのである。殺しまくっているのに、のびのびとした生命力がある。
生徒たちを次々に殺していくのだが、たとえばホッケーマスクをかぶった殺人鬼が大暴れするような映画ともまったく違う。スプラッタが逆説的に見せる爽快感や笑いなどとは次元が異なる「大きさ」がある。そして前述したように、延々続く殺戮描写はシャープではなく「ずぶずぶ」だ。見せ方自体は「手を変え、品を変え」ではあるのだが、基本的にはズドンと銃を撃ちっぱなしで、この教師が見た目以上に一途で、一度こうだと思ったら、それを貫いていく性格なのだということが理解できる単調さ。つまり「愚直」。「愚直なすがすがしさ」こそが、本作の美徳に他ならない。