こころの色、エクリュ。映画『ひとりぼっちじゃない』について
ストイックではなく、すといっく。
ポップではなく、ぽっぷ。
プラトニックではなく、ぷらとにっく。
エロティックではなく、えろてぃっく。
ファムファタルではなく、ふぁむふぁたる。
フラットではなく、ふらっと。
この映画から想起することばを、ひらがなにするとしっくりくる。作品の感触が、ひらがななのだ。だからというわけではないだろうが、タイトルは『ひとりぼっちじゃない』。全部ひらがな。そして、ここが重要な点だとおもうが、小文字がある。
一人ではなく、ひとり。
ひとりではなく、ひとりぼっち。
ではないではなく、じゃない。
こうしたニュアンスが、画面のすみずみにあって、それが独特の清潔さを形成している。
主人公のキャラクターや、物語の推移、人物関係図のありようなどには、抑圧や葛藤、焦燥などが確かに存在している。悪夢めいた描写も挿入される。だが、切迫していかない。流れていく、というか、撫でていく感覚が、映像のタッチにある。
展開はあるが、水質は一定であり、澱んだり、異物が紛れこんだりすることはなく、水の感触が、流れながら撫でてくれる。移動しながら接触してくるやさしさ。あのコポコポ音が通奏低音となる。
彼女の部屋はシェルターのようであり、そこに至るまでの道のりは、屋外も含めて、すべてチューブをつなげたトンネルのようだ。密閉されているが、閉塞感はなく、デジャヴにも似た謎の安堵、懐かしさがある。これは、なんとなくそこにあるものではない。明確にコーディネートされている。反復される景色は同じポジションで撮影されており、この繰り返しが、ある種の安定感を醸造し、立体性ではなく平面性を保証し、これが安らぎへと結びついている。
同じ景色の中で彼はあるとき転び、そのまま車に轢かれる。急展開のはずだが、急展開にはならない。轢いた側が気づいているか、気づいてないかという問答が警察とのあいだで繰り広げられるが、このナンセンスにも、本作のなだらかさが的確に立ち現れている。松葉杖の生活は確実に不自由を強いるし、その停滞の痕跡は、彼に深刻な影をおとす。陰謀論やら魔術やら、思考の誘惑が紛れ込んできて、とんでもないことまでしでかすようになる。ストーキングとしても明らかに常軌を逸した行為いくつかを彼は狂わないままおこなう。この狂わない、という点が重要で、映画の平明ななだらかさを保証する。
小演劇を観た後の主人公の苛立ち。小さな川の向こう側とこちら側で、もうひとりの女と闘わせる修羅場。そして、小屋に隠れて覗きながら、別の男と目があう瞬間。すべて劇的なシークエンスだが、作品の呼吸は乱れない。
その後は、何事もなかったかのように、次のシーンが紡ぎ、組み合わされていく。見事な筆致。しかも決して文学的ではなく、どこまでも映画としての心拍数がある。
妄執を描きながらも混乱が生じない。怪談めいた説話構造でありながらおどろおどろしさが皆無。すみきっている。すこやかな悪意。その先にあるのは、案外クリーンなエピローグだ。
展開はある。だが、作品を展開させるための誇張がない。また、伏線のような目配せもない。だから、ありきたりのカタルシスにはハマらないし、先読みができない。予感が裏切られるときの気持ちよさだけが静かに堆積していく。その一定さ。
母親とそのパートナーの家で迎える結末はアクロバティックなはずなのに、過剰なところがまるでなく、そうだったのかもしれない、と不思議に納得してしまう。にんげんとにんげんのぬくもりというものがこのシークエンスにはあって、それは、映画のそれまでとは違うものなのに、違和感はなく、スムーズに、このあたたかさにくるまれてしまう。
振り返ってみると、この作品の特異点は、全篇がどうやら、読後感だけで形成されていることにあるのかもしれない。なにかが終わったあとのやるせなさ。手をはなしたあとのさみしさ。過ぎ去ったあとのこころもとなさ。それをノスタルジーやナルシシズムとはかかわらないまま、淡々と彩色しているから、この風合いが生まれた。エクリュ。
タイトルを含有するエンドクレジットは、エクリュで示される。生成色と日本語に訳されたその色は、わたしたちの肌の色でもあり、こころの色でもあるのだとおもう。
その色の上に、ひとりぼっちじゃない、という文字がのっかることでしか生まれない風情が、ここにはある。
井口理のミニマルな演技。馬場ふみかの世界の終わりをおもわせるスロウな揺るぎなさ。河合優実のふくよかな上から目線。
星の砂のような凹凸と、だれのものでもない明滅を、伊藤ちひろは素手でつかみ、ほい、とそこにおいてみせる。山盛りの読後感。
わたしたちは、それを見て、確かにおもうのだ。
ひとりぼっちじゃない、と。