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反射している。映画『四月になれば彼女は』論

 反射している。
 
 それはちょうど、映画が折り返しを迎える頃のことだった。
 濡れた屋上の床を、雨上がりの陽が照らし出す。
 そこを、ふたりが歩いている。
 ちなみに先生は、どうして精神科医に?
 弥生が、藤代に問いかける。
 ん? これまた逆転してません?
 藤代は、自分が精神科医になった理由を考えながら、ふと我にかえる。
 診る者が診られる者となり、診られる側が診る側になる、ふたりの関係。
 動物のお医者さんと、人間のお医者さん。
 だからこその、入れ替わり。
 動物と人間。女性と男性。対比の中で、主従が反転する。
 この、愛おしくて厄介なリレーションシップが、ひとつの光景として、ひとつの現象として、画面に映し出されていた。
 だから、あの映像は、深層にこびりつき、気づけなかったことを気づかせる。
 
 濡れた屋上の床を、雨上がりの陽が照らし出す。
 反射している。

 このシーンの少し前、春がブラックサンドビーチで倒れる。
 その直前の海の光景もまた、反射という現象が創り出した絶景だった。
 これで終わるんだ。
 彼女はそれを旅の終着点と呼んでいた。
 涙に濡れた春の瞳に映る、海の陽。
 反射している。
 小林武史によるパイプオルガンを基調とした音楽が鳴り響いている。
 パイプオルガン。
 そういえば映画の序盤で、弥生は、パイプオルガンを弾いてみせていたではないか。彼女が習っていたことを知らなかった藤代は、そのことに驚き、動揺していたではないか。そして、その様子を、ふたりが結婚式を挙げるはずの場所のステンドグラスが見つめていたではないか。
 続く春のシークエンスで彼女は彼の地の教会で佇んでいる。
 ステンドグラスと教会。
 反射している。
 距離が離れていても、時間が離れていても、反射している。
 弥生が、結婚式と葬式の共通点について述べていたことが想起される。
 そして、春は、死に向かっている。
 レフレインがリフレクションを創り出し、反射が反復を呼びこむ。
 そんな映画的な構造もまた、主従が危うく、常に入れ替わる。

 藤代の回想が基調となる本作では、過去が乱反射して、藤代の現在を照らし出す。これもまた、反射だ。過去と現在の反射。
 映画の主軸が、作品の骨格が、反射で出来ていたことにわたしたちは気づく。
 そもそも、冒頭、春が歩くウユニは、反射そのものの象徴だったではないか。空が湖面に映り込み、湖が天空になる。天地が反転するという反射。天国のような反射。

 混迷と喪失をめぐる物語であるにもかかわらず、映画『四月になれば彼女は』が観る者を救済しつづける理由はここにある。
 映像的にも、構造的にも、そして暗喩的にも、反射のかがやきを纏っているからだ。
 反射のモチーフは、いたるところに偏在している。

 弥生が割ってしまったワイングラスは、ふたりが相談して購入したものであり、藤代はやがて買い足す。
 序盤、鏡を見て、ひとり微笑む弥生。終盤、ガラスに映る自分を見て、あることに気づく藤代。
 目玉焼きと、ゆで卵。
 斉藤由貴「卒業」と、ちあきなおみ「喝采」。
 タスクと、ペンタックスという、キーパーソンふたりの固有名詞。
 いまの桜と、かつての桜。
 天気雨、天気と雨。
 現在の時間と過去の時間が交差する、チェコの時計。

 すべて、反射している。

 藤代と春が飛び立つのことのできなかった、空港の床。
 藤代と弥生が向かい合って話す、ふたつのベンチ。
 不在の母、不眠の父。
 写真と、診察。見る、診る。
 四月、季節の変わり目、ふたつの季節。
 夜と朝、片方の足が夜にあり、もう片方の足が朝にある、そんなグラデーション。
 写真と、アルバム。時の集積。
 写真と、手紙。時の到着。
 ダイアローグと、モノローグ。

 すべて、リフレクションだ。

 しかし、あの濡れた屋上の床を、雨上がりの陽が照らし出す光景の後、映画は反射の次のステージへと進んでいく。
 かがやきの先には、ぬくもりがあった。

 回想が、過去の反芻ではなく、現在からの発見へと変化する。
 弥生が働く動物園で、キリンの睡眠時間を記したプレートを目撃する藤代。それは現在だが、桜に背を押されるように走り出し、弥生を抱きしめたあの日の動物園が、よみがえるのではなく、いま・ここに降り立つ。
 藤代との新居のために買い物をする時、弥生が着ていたボーダーシャツは青だった。弥生が春と一緒にたい焼きを食べる時、彼女が着ていたボーダーシャツは赤だった。これは反射でもなく、対でもない。ボーダーの上で、青と赤が折り重なっている。青から赤へ、というよりも、青も赤も溶け合っている。つまりボーダーは、同一線のメタファーだ。
 では、その時、春は何を着ていたか。淡いストライプのブラウスだ。ボーダーとストライプ。これも反射ではなく、融合だ。横の線と縦の線は、クロスし、邂逅している。
 春の髪を切る弥生。ふたり並んで一緒に見た海。
 その海に向かって、藤代が駆け出す。あの日の動物園よりも、もっと力強く、そして、もっと無様に。
 海は反射していたかもしれない。
 けれども、藤代と弥生が波にもみくちゃにされ、また波をもみくちゃにしたことで、それはもう反射ではなくなる。

 ラストシーン。
 ふたりの後ろ姿はもう反射していない。
 ただ、光があるだけだ。
 プリズムが、ふたりを包んでいる。

 「満ちてゆく」が流れる。

 “明けてゆく空も暮れてゆく空も
 僕らは超えてゆく“

 藤井風がうたう。

 “晴れてゆく空も荒れてゆく空も
 僕らは愛でてゆく“

 わたしたちもまた、手を放し、軽くなり、満ちてゆく。

 “やがて生死を超えて繋がる“

 生と死。
 藤代と弥生と春が繋がっている。
 四月と彼女(たち)が重なっている。
 時を超えて。場所を超えて。

 写真は目に見えないものを写し出す。
 映画も目に見えないものを映し出す。

 反射しあっていたものたちは、もう互いを見つめあっている。

 

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