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松村北斗、清潔なディスタンス。

この映画の美点はいくつもある。だから、わたしたちは繰り返し観なければならない。

これは(少なくとも映画作品としては)塚原あゆ子監督の代表作になるはずだ。いつものチームとは違う(映画的な)座組で、坂元裕二脚本に取り組んだ結果、ミニマルなドラマの味わいを残したまま、大風呂敷を広げることなく、映画ならではの時間反復物語を展開できている。ギミックに頼らず、平易なダイナミズムを獲得している。外側のスケールではなく、内側のスケールを拡張していることも大きい。才能を別なベクトルに発揮したことで、世界観が深まった。

そうした舞台の上に立つ松たか子もまた、映像における彼女の最高傑作と呼んでいい境地を切り拓いている。映画では岩井俊二『四月物語』以来、ドラマなら「大豆田とわ子と三人の元夫」以来の名演という表現ではもはや生ぬるいかもしれない。前半と後半で異なる味わいを見せ、それぞれに得意技と新展開を織り込み、だが対比ではなく、ゆるやかに繋げることで、人物表現の動と静の同一化に成功している。松たか子ファンほど驚くだろうし、彼女にさほど興味を抱いてなかった人ほど親近感をおぼえるに違いない。

そして、松村北斗だ。この俳優はポジショニングが独特で、相手によってパスワークが変わる。『ディア・ファミリー』の大泉洋との芝居も興味深かったが、彼の独自性が活きるのは、やはり女優を相手にした時。とは言え恋愛の相手役としてウットリさせる、というのとはまるで違う。『キリエのうた』のアイナ・ジ・エンド、『夜明けのすべて』の上白石萌音はほぼ同世代であり、ドラマ「西園寺さんは家事をしない」の松本若菜や今回の松たか子は彼より年長であるが、松村はすべて一歩下がった上で、芝居を変幻させている。

より正確に言えば、一歩下がって、ではなく、二歩半くらい下がっている印象があり、この点は一貫している。上白石やアイナに接する際も、演技の質が松本や松に対するような態度なのだ。だから女優、いや、女性を前にした松村北斗には生ぐささが一切漂わない。これはいわゆるジェントリーとも異なる。役のキャラクター的には、マイペースだったり、無頓着だったり、(アメリカ帰りのため)“距離が近すぎる!”と叱責されたりもするのだが、図々しい肌ざわりがまるでない。(作法が)紳士的というより、(生来)清潔なのである。

本作の物語や設定に関しては何も知らないほうが良いので、ここでは一切書かないが、こうした松村北斗的ディスタンスが、作品世界の深い地盤に影響を与え、名女優、松たか子を(これまでとは違ったかたちで)輝かせていることは明記しておらねばならない。

松村が選択する距離は可視化されている場合もあるにはあるが、本質的にそれは存在から醸し出されるニュアンスだ。松村北斗はムードでは演じない。細部のニュアンスを積み重ねて、女優とのディスタンスを創り上げている。この、構築された距離感によって、女優たちがのびのびしていることを見逃すべきではないだろう。

わたしたちは、松村北斗が演じる人物にも興味を抱くが、それよりも彼のまなざしの先に居る女性に興味を抱く。さらに深掘りするなら、松村と女優のあいだに敷かれている(おそらく彼が敷いたものだ)レールのようなものが、観客の深層心理に触れてくる。これは、“気になる”気がする、と表現すべき現象である。映画にしろドラマにしろ、わたしたちを吸引しているのは、演じられたキャラクターや物語や台詞や音楽ではなく、あくまでも関係性なのだという真実を、この現象は証明する。松村は、女優とのリレーションシップに最大限の留意を払って演じていると考えられる。役と役としてはもちろんのこと、演じ手と演じ手の(資質の違いも含めた)関係性こそを念頭に置いているから、アプローチがその都度変わってくるのだ。

二歩半下がることでようやく見えてくる風景がある。松村北斗は、同じ地面に立ちながら、俯瞰することができる性質の俳優であり、今回の映画の複雑と言えばかなり複雑かもしれない側面も、松村の演技表現を通して、(過度ではないという意味での)フラットなパースペクティブに到達している。

松村北斗は、わたしたちより、少し遠くにいる。だから、わたしたちは目を凝らすし、耳を澄ますし、近づこうとする。そうしてもたらされる感動は、人と人との距離や関係性には無限の拡がりがあることに繋がっていくだろう。

そこで目撃できる光景は多様であり、ジェンダーレスであり、松村がきわめて21世紀的な俳優であることを示している。

松村北斗の美点はいくつもある。だから、わたしたちは繰り返し観なければならない。

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