左利きの季節。『もらとりあむタマ子』に寄せて。
左利きの季節
山下敦弘は、とても日本的な監督である。彼は、季節というものを、彼ならではの方法で映し出すことができる。
『どんてん生活』は、妄想としての「花見」が出現することで終わる。『天然コケッコー』は、ある「供養」がおこなわれることで転換点を迎える。
季節は、可視化されるものばかりではない。それは、あたまのなかだけにあるものかもしれないし、目に見えないものかもしれない。
つまり、桜が咲いたから春が告げられたわけではないし、雪が降ったから冬を感じるわけでもない。
ひとの数だけ、季節はある。
季節は、いつの間にかしのび寄り、いつの間にか追い抜き、いつの間にか置き去りにしていく。
わたしたちは、ずっと経ってから、そのことに気づく。自分だけの季節が、通り過ぎていたことに。
『もらとりあむタマ子』は、その「いつの間にかの季節」が、日常のやりとりのなかで、あるときはふと、あるときは半ば強引に、生まれることを、もはや粒子のレヴェルで捉えてしまっている。
季節は、四つだけではない。
前田敦子は、左利きの身体で、人間が感受する無数の季節たちを、すべて、かけがえのないものとして体現している。
タマ子はひねくれているわけではない。単に彼女は左利きなだけだ。
タマ子はタマ子の習性で、タマ子の時間を生きている。あるときは獰猛に、あるときは放心しながら。
季節は、何度だってめぐりくる。
そのことに、慈悲があるのか、ないのか、そんなことは、どうでもいい。
タマ子に、タマ子だけの、左利きの季節が、訪れ、そして、去っていく。
それだけで、それだけで、うれしい。
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