とりあえず遺作でも撮っておこうか。ホン・サンス『草の葉』
決して名作だけは撮るまい。
そんな、奇妙な、そして意固地な気概だけが漲っている映画作家だった。
名作になりかけると、すんでのところで崩す。あるいは、そもそも名作にならないように周到な準備を張り巡らせる。企画にしても、撮影にしても、編集にしても、音楽にしても、名作化を拒む意志が明確に屹立していた。
そんなホン・サンスが『それから』で遂に名作を完成させてしまった。
『それから』は冒頭からやけに気合いが入っており、彼の映画を観続けてきた者であれば、この気合いは、きっと後半で外されていくはずだ、この気合いが気合いのまま最後までいくことはないだろう、炭酸の泡が抜けるように、どこかで意図的に、ガクッとさせるはずだ、なぜなら、それがホン・サンスだから、と念じながらスクリーンを見つめていたはずで、まさか最後の最後まで気合いが継続し、ちゃぶ台がひっくり返されなかったことに驚いたに違いない。
ホン・サンスが『それから』の後に、どんな映画を撮るか。撮るはずのなかった名作を撮ってしまった後で、どんな映画人生が待っているのか。
そうした興味の下、送り届けられた『草の葉』は、モノクロームだった。
ホン・サンスは、『オー!スジョン』『次の朝は他人』と、ここぞという時だけ、モノクロ映画を撮ってきた。その先に『それから』の黒白画面があった。頻繁に撮っていたわけではなかったからこそ、『それから』の名作感も特別なものになった。
しかし、大胆にも、『それから』の次作である『草の葉』も、その次の『川沿いのホテル』も、どちらもモノクロ。これは当時、大きな衝撃だった。
キム・ミニと出逢った『正しい日 間違えた日』以降、ホン・サンスの映画道は、変化していく。曲がりくねっていたはずの野良道は、『それから』で真っ直ぐに舗装されたかに思えた。
このまま円熟の境地に突入するのか。
そこを見極める意味でも『草の葉』は重要作であった。
結論から言おう。ホン・サンスは、早々に遺作を撮り上げてしまった。
この監督は、『草の葉』の後、現在(2023年5月)までに既に7本もの作品を完成させている。だから時系列的には明らかにおかしいのだが、彼が今後、『草の葉』以上に遺作らしい遺作を撮るとは思えない。
名作を撮らないはずの男は、『それから』で名作を撮ってしまったことで、畏れるものが何も無くなったのだろう。ひと足先に、遺作を撮ることにした。事前に撮っておけば、その後の映画人生がより楽になると考えたのかもしれない。そんなこと、普通は想定しないし、また実現もしない。しかし、ホン・サンスはそれをやってしまった。
キム・ミニが一応の主人公ではある。だが、あくまでも「一応」であり、本作に主人公はいないのかもしれない。ただの空洞化した狂言まわしとしての人物を、ホン・サンスのパートナーは演じている。誰が演じても同じかもしれない、匿名性の高い役どころだからこそ、キム・ミニが配役されている、と言えるかもしれない。
カフェで、彼女はMacBookに何かを打ち込んでいる。作家ではない、と自ら語っているので、物書き未満なのだろう。この「未満」という概念と観念が重要かもしれない。
決定的なことがない世界観なのだ。
境界線が曖昧で、その「曖昧である」ということが一種、強力な意思表示となっている。
カフェに現れる、男女の対話を、キム・ミニは覗き見る。激しく、そして、情けない、そのやりとりを、「未満」の彼女は、モノローグで断罪していく。モノローグは、心の声であると同時に、彼女が今この瞬間に綴りつつある「ト書き」のようでもある。
女に世話になろうとする男たち。その無様なありようを「生き恥」と、キム・ミニは罵る。ミルフィーユのように積み重なっていく罵りは、呪詛の様相すら呈してくる。
ところが、映像の筆致は穏やかで、黒味の深い映像設計とも相まって、かなりの落ち着きがある。滋味があると形容してもいいほどだ。
かつてのホン・サンスだったら、冷徹な観察者ポジションから、人間の愚かしさを昆虫でもとめるようにピンで突き刺しレイアウトしていただろう。だが、ここには、そんなクールネスは存在せず、冷笑の気配さえない。
どこか大らかなのだ。
嘲るのではなく、微笑みかけている。
キム・ミニが他人の修羅場をリサーチしているのではなく、修羅場を演じているのはキム・ミニが創造した架空の人物たちかもしれない。そんなことさえ思わせる、奇妙な優しさが画面の通奏低音となっている。
ホン・サンスは、己のルールという呪縛から解き放たれただけではなく、天国の情景を思わせるほどなだらかな映像を構築することで、かつてないほど気楽になったのではないか。
その後の彼は『逃げた女』をはじめ、急進的に女性映画へとシフトし、しかも枯れることなく、熟しすぎることもなく、気負わずハイペースで映画作りを継続中。いつ立ち止まっても、立ち止まらなくても、どっちでもいい自由。それを『草の葉』は保証しているのだ。