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横揺れの文学宣言。宮﨑駿『君たちはどう生きるか』

鳥!鳥!鳥!

唯一のビジュアルに嘘はない。
宮﨑駿『君たちはどう生きるか』には、ヒッチコック『鳥』を蹴散らさんばかりに大量の鳥が登場する。
それは凄まじい数であり、具体的な展開に関与する。

もちろん、鳥は主題のメタファでもあるが、それ以上に宮﨑駿が啖呵を切っているように感じられた。

“おれが創ってるのは、鳥のフンみたいなもんなんだよ!”

自虐ではない。正々堂々「文句あるか?」と詰め寄っている。鳥のフンの何が悪いんだ? と、上機嫌で好戦の構えだ。

ベルイマン『ファニーとアレクサンドル』を想起させもするこの映画は、とにかくやりたい放題なのだが、すべてを統合しようとする強固な意志を感じる。

押井守でもなく、庵野秀明でもなく、やや細田守であり、かなり新海誠でもある。細田守『未来のミライ』を優しくねぎらい、新海誠『すずめの戸締まり』にガチで肉薄する宮﨑駿など、想像もしなかった。だが、茶番ではない。あくまでも真剣だ。

幾つもの門をくぐり抜け、宮﨑駿が提示するのは文学だ。文学こそが全てを統合するのだという宣言。絵画でも、映画でも、SFでも、哲学でも、音楽でも、ない。文学なのだ。

おれはおれの漫画を文学にする。それをアニメーションと呼ぶなら勝手に呼べ。おれは文学を創った。いや、ずっと創ってきたのだ。

それを古い、というのは簡単だ。だが、本作にはキューブリック『2001年宇宙の旅』に匹敵する本気がある。文学という巨木。

『風立ちぬ』の姉妹篇、あるいは完結篇と捉えることは充分可能だろう。だが、そんな辻褄合わせより重要なことがある。

あれだけ縦構図にこだわってきた宮﨑駿が、ここでは冒頭から横揺れを強調し、画面全体、シーン全体、作品全体を、横揺れのムーヴで統合している。

横揺れの文学。

それが『君たちはどう生きるか』だ。

これは年長者からの説教ではない。

わたしたちが、どのように、この世界と共振していくのか、それを問うているのだ。

つまり、文学こそが鳥のフンなのだ。

世界を見下ろし、天空を飛び廻る何かの排泄物。それが文学なのだと、宮﨑駿は横揺れで宣言している。

いずれにせよ、わたしにとっては、強靭な誕生祝いとなった。

そう、これは、何よりも、誕生をめぐる作品なのだから。

じぶんの誕生日に『君たちはどう生きるか』を観ることができて幸運だ。

2023.7.14
相田冬二

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