平野紫耀とは【まえぶれ=前兆】のことである。2022年最高の映像体験「クロサギ」最終回の一瞬について。
最終回。31分。
佐々木蔵之介「わたしも殺しますか」
そのあと、平野紫耀は食事を終え、ナイフとフォークが皿に当たる音がする。
佐々木の台詞と、あの音のあいだに、平野が醸造した【沈黙】がはさみこまれるのだが、あのときの彼の左(向かって右)の口元の微かなひきつりが、とにかく豊穣だった。
じっと凝視しないとわからないくらいの、ひきつり。だが、わたしたちは確実に凝視する。なぜなら、彼の【沈黙】が吸引するからだ。
平野紫耀の左口元は、なにか言いかけたようにもおもえるし、怒りをこらえているようにもうつる。積年の想いがそこにはあり、悠久の決断がいま放たれようともしている。
あの口元のひきつりにはグラデーションがあり緩急がある。
わずか数秒のことだが、そこには逡巡、諦め、抑止、決意、受容、抱擁、追悼、解放など、人生における重要なことがらがすべて、揺れ動きながら、凝縮している。
あれは、たまたまそうなったものではなく、平野紫耀が明確に構築しているものだ。
無論、平野紫耀は、ここで伝家の宝刀【顔揺らし】を投入している。
顔が仄かに揺れている。
喉仏の表情、まなざしの凝固が、微細なサポートを見せる。
荘厳な音楽も鳴り響く。
しかし、それらすべてを超然と乗り越えた、口元のひきつりが、【沈黙】を躍動させる。
これが、「クロサギ」最高の瞬間であった。
平野紫耀とは【まえぶれ】のことなのだ。
平野紫耀は【まえぶれ】を生きている。
なにが起こるかは問題ではなく、なにかが起こるであろうと予測させる、予感させる、その【前兆】こそが、わたしたちに【ときめき】をあたえる。
【兆し】の権化、平野紫耀。
あんなことができるのは、おれが知るかぎり、ロバート・デ・ニーロしかおらず、平野紫耀はすでに世界最高峰の俳優だと断言できる。
いくら才能があっても、それを発揮できる場に出逢えるひとと、出逢えないひとがいる。
平野紫耀は「クロサギ」という場に出逢い、才能を発揮し、それが記録された。
観客として、これほどの倖せを味わえることは滅多にない。
わたしたちは、この奇蹟を、ただ享受すれば、それでよい。