四日後に書いた森田芳光追悼文。
その著書のタイトルに倣って表現するならば、彼の作家としてのありようは、映画というメディアを相手に優雅にスタイリッシュに戯れる「東京監督」ーーあるいは、『それから』からの一語をかりて「高等遊民」と呼ぶことも可能かもしれない。このたびの急逝に際して、多くのひとびとが真っ先に『家族ゲーム』の衝撃と深遠を口にする背景には、そうしたパブリックイメージが横たわっているからに違いない。
けれども。
彼をクールな天才とだけ捉えて集約してしまっては、森田芳光ならではの情感と情緒は見落とされてしまうだろう。なぜなら、デジタルに見えて控え目な情感、無機質に思えて平明な情緒が、強靭ななめらかさを編み上げていくその始動の瞬間と回転の様こそが、森田作品の唯一無二の独自性だからだ。そこでわたしたちが出逢うなめらかさは、いわゆる「絶妙」の一歩手前で意図的に抑止されたものの集積であり、言ってみれば「ジャストフィット」なる安直かつ単純な快感原則からできるだけ遠くに離れるための「寸止めの嵐」がもたらしているものである。渋谷育ちの彼のそうした振る舞いは、「品」や「粋」と形容するよりも、いま、そこにある「やさしさ」に他ならなかった。美学や美意識ではない。それは「情」だった。
たとえば『キッチン』にはこんなカットがあった。屋外にある蛇口から水がぽたりぽたりと落ちている。ふと立ち止まった松田ケイジがそれを閉め水は落ちなくなる。ごくごく短い時間で示されたこの蛇口。それは礼儀作法についての表現ではなく、「生きている思いやり」と呼ぶべきなにものかだった。
あるいは『ときめきに死す』でゆっくりゆっくり走る自動車と、それを包み込むように、撫で触れるように、ついていく映像のたとえようもないやわらかさ。そこに映っているのが、ひとであれ、物質であれ、景色であれ、光であれ、彼の映画はいつも、そうした運動と交通を、代替不能のかけがえのないものとして、画面に定着させていた。その、まっさらな慈しみ。
つまり、「情」を伝えるために、テクニックは駆使されていた。芸ではなく「人間性」こそを抱きしめていた。
脚本家としての才気は台詞の取り扱いから作劇の構成力、世界観の醸成までありとあらゆる面において発揮されていたが、彼がコメディに属する作品を数多く手がけたのは、喜劇というものが常に孕む「かなしさ」を、説明とは完全に一線を画する「ともにある」感覚で提示しようとしていたからなのではないか。
だからこそ、『(ハル)』の画面に映し出される文字のフォントからわたしたちは「ぬくもり」を受け取ることができるのだ。人間という生きものの感性はまだまだ更新されるし、そこには可能性が眠っている。そう信じたからこそ、共時性=シンクロニシティ(意味のある偶然と偶然の邂逅)としての語り、描写が準備された。
上空を何かが飛んでいる。森田映画に何度か立ち現れるこの象徴=シンボル(抽象の具体化、唯物化)こそ、そうした共時性の最たるものだった。だから『模倣犯』は必ずしも残酷な神に支配されているわけではなかった。物語の「その先」にあるものが、シンボルとしてそこにはあった。
『家族ゲーム』のラストでは画面の外からヘリコプターが旋回する音が聞こえていたが、『未来の想い出 Last Christmas』の冒頭ではグラウンド=世界の上を飛行機の巨大な影が通り過ぎる。暗喩ではなく、「ともにある」ことがギミックなしに明示された。
わたしたちは世界を見つめてもいるし、世界に見つめられてもいる。共時性はさらに拡張され、『わたし出すわ』においてこの作家のまなざしはついに哲学も宗教も超える何かを見つけ出した。ピエール瀧扮する人物が熱中している「箱庭」の存在は、森田芳光が辿り着いた地平にわたしたちが向かっていくための大切な道標となるだろう。
最新作『僕達急行 A列車で行こう』も間違いなくその延長線上にある。ここで描かれる「趣味」は、わたしたちと世界との関係性についての限りない肯定だ。
最新作の題名に「A」の文字があるのはなぜか。森田芳光は「やりたいことはすべて『の・ようなもの』でやってしまった」と語ったことがある。つまり、あの劇場デビュー作は彼にとって「最後の映画」でもあった。彼の映画が常にみずみずしいのは、それぞれの作品が「ゼロ」と「イチ」のあわいにあるからだと思えてならない。すなわち彼は、第二作目以降すべて、その都度「出発」していたのではないか。『A列車で行こう』のなかにある「ここまで来たら世界のどこだって行ける」というフレーズは、つまり「A」が基点だということを示唆していたのではないか。
人生をリプレイすることの絶望と、諦観の果てに発見されるものを見つめた『未来の想い出』から、主人公の言葉を引用しよう。
「あなたの意志で変えた。わたしたちの意志で未来を変えた。運命なんて初めからなかったのよ。死ぬと思ってたから。やり直したいと思ってたから二度も死んだのよ。でももう死にたくないでしょう。やり直したくなんかないでしょう。私だってこのまま生きてみたいわ。新しいことが起こるのよ。飛行機は落ちないわ。落ちるなんて少しでも想像したら駄目。わたしたちが想うことが未来なのよ。それを信じてみましょうよ」。
映画は進化する、と彼は言った。それは、映画それ自体が、あるいは、映画作家が進化するということだけではない。銀幕を見つめる観客自身も進化するということだ。逆に言えば、観客の進化なくして、映画作家の進化も、映画の進化もありえない。森田芳光の映画が放つ「やさしさ」とは、つまり、そういうことだった。
わたしは信じる。遺された27本の監督作から、わたしたちが「出発」することを。人間はまだまだ「出発」できるのだということを。
クリスマスイヴの朝。『(ハル)』のサウンドトラック盤を聴きながら。相田冬二
2011.12.24