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夕暮れに、手をつなぐ。sideパリ
映画には、ものすごく悲しいシーンに、あえて明るい曲を流す手法がある。
「夕暮れに、手をつなぐ」のハッピーエンド(と呼ばれているもの)は、闇に添えられた副菜や薬味である。
皮肉や悪意ではなく、それが人生だよ、と突きつけてくる。でも生きていかなきゃいけないんだよと。
だれもがルーザー。
あまりに悲痛な一篇の映画を観ているようだ。
比較する必要などないが、「100万回言えばよかった」は人が死に、陰惨すぎる背景も描かれるが、あくまでもしあわせなドラマだったが、「夕暮れに、手をつなぐ」はだれも死なないし、画面はずっと綺麗なままだったが、どこまでも過酷で悲しいドラマだった。
菜の花のモチーフを託した紅白の衣装も辛かった。
女性のクリエイティヴなキャリアについての現状と展望について一石を投じた。
音ほど優しく控えめで魅力的な男性でも、空豆のクリエイティヴなキャリアには無頓着で無関心なのだという現実を突きつけたラストだった。
音は、単に自分自身のロマンを昇華させただけだったのかもしれない。
最終話でふたりは「かつて」の話しかしない。「いま」や「これから」の話を決してしない。
ドラマは、セイラに表現の場を与えつつ、彼女に苦しみの克服はさせず、更なる煉獄に身を投じさせる。
セイラが許せない人も多いだろう。だが、あれは、空豆への失恋、音への嫉妬からの嘘というより、彼女が自傷癖から脱することができていないことの表れだったのではないか。
確かに空豆のことも音のことも傷つけた。が、それ以上に三人の関係性を破壊し、セイラ自身が痛手を負うことを望んでいた。つまり、BPMは、セイラを救うことはなかった。
つまり、あの狂言は、自傷行為の一種。彼女は、その地獄から脱することができずにいる。
これは嫉妬なのだと、彼女が自分自身に言い聞かせているようなところも、闇が深い。
MV撮影のくだりは、むしろ伏線だった可能性さえある。
塔子は「母」としてパリで再起を図るが、結局、娘を「育てる」ことができなかった。彼女はこれからも、自分のクリエイティヴと共に生きていくしかない。彼女は二度、空豆を失った。いや、二度、手放した。もうこれ以上、実の娘を失うことも、手放すこともないだろう。
途轍もなく大変なことがあったから、空豆は帰国した。
久遠に訊かれても、そこは明確に答えない。塔子も手紙ではぼかす。あの手紙の「他人事」感も、おそろしい。「のようです」と塔子は空豆について記す。その口ぶりには、娘をパリに連れてきた責任は微塵も感じられない。きっと、塔子が関与したくない「とんでもないこと」が起きたのだ。
パタンナーの葉月は、デザイナーとしての空豆を支えるのではなかったのか?
彼がパリに残ったのだすれば、空豆との間に、共同制作者としての決定的な亀裂が生じたと見るのが自然。
帰国した空豆は「趣味」としての洋服作りをしているのであり、そこにパタンナーの居場所はない。
いや、明確に、葉月が塔子を選ぶような出来事があった。
葉月は、空豆の「傷」を知っている。なのに。
久遠が空豆のアイディアを盗んだ時以上に過酷なことがパリでは起きたのだろう。
結果、空豆の才能を、葉月もまた見捨てた。
明確には描かれないパリの3年こそが、本作の核心である。
空豆が帰国した日本に、響子の影はもうない。
蕎麦屋親子も出てこない。
あの人たちは見送るだけの人たちだった。
「これからたのしいことがあるんだよ」
響子のことばが、虚しく響く。