だれかが自分に魅了されても、その責任をとる必要はない
2011.11.13執筆
「ところで、君はなにかすごいことをした経験があるかい? なにか生み出したことはあるかい? それとも、ほかの人の作品にけちをつけて、作る人のモチベーションを引き下げてばかりいるのかい?」
これは、ポルノ的なアプリを排除するアップルの姿勢を批判するテクノロジー系ゴシップサイトの編集者との、電子メールのやりとりを締めくくる彼の言葉である。iPhoneやiPadを生み出した男は、死の前年にもまるで子供の喧嘩のような言動を繰り広げていた。世界で最も成功した企業のCEOが、ひとりのブロガーを相手にこんな対話をしていたのである。
本人公認ではあるが本人が一切検閲しなかった『スティーブ・ジョブズ』という書物が語りかける肖像は、言ってみれば「どや顔の男」である。
幼い頃から「自分は特別」だと信じ、物事の判断基準は「最高」と「最低」にしかなく、故に他者を徹底的に糾弾することが多々あり、「現実歪曲フィールド」(彼を知る人々が好んで使う認識=概念。「ありえない」を「ありえる」に変える力は、わたしたちが生きる世界の法則を黙殺=逸脱する粗暴さでもあった)の住人だったジョブズ。本書が既に刊行されている「語録」の類と一線を画しているのは、「成功者は奇人だった」と断定する暴露話でも、イノベーションと断行を見習おうするビジネス指南でもなく、その「どや顔」にもっともらしい陰影を施していない点にこそある。
これは「成長しない少年」の物語である。成熟を拒否しているのではない。大人になれない、のでもない。ジョブズの闘いは「抵抗」ではなかったし、不可能への「挑戦」ですらなかった。それはできる、だから、やる。そのためにはどのような犠牲が生じようとも感知しない。その連続だった。彼は人を魅了する。しかし魅了した責任はとらない。これが公私ともに一貫していた。側近たちは皆、彼に褒められたくて懸命になる。だがジョブズはあるとき平然と手のひらを返す。容赦なくそれができる。他人にどう思われるか(たとえば「薄情」だと)にとらわれなかった。
自身が立ち上げた会社を追放されて後に復帰するという劇的な人生もまた、彼を成長させることはなかった。不治の病が発症したときも同様だった。彼は九ヶ月も手術を拒否し、若い頃から継続している絶対菜食主義に固執し、食事療法が癌を駆逐すると信じた。妻が語るように「直面したくないことはみんな無視」する少年だった。
わたしは彼の「どや顔」に感動する。なぜなら、この「どや顔」には、人物伝の定番である、成長に付随する「悟り」こそが素晴らしいとする道理が一切まとわりついていないからだ。
四十回にも及ぶジョブズへのインタビューと、彼の「現実歪曲フィールド」に取り込まれた人々への丹念な取材と愛憎半ばする発言を基に書き上げたウォルター・アイザックソンの筆致には、文学的な美しさはほとんど見当たらない。しかし一カ所、こんな記述がある。大学を中退し、ビデオゲームメーカーに自分を無理矢理「雇わせた」ジョブズは、やがて同僚のひとりからゲイであることを告白される。ジョブズは質問した。「美しい女性を見たらどう思うんだい?」。彼は答えた。「美しい馬を見たときのような感じだね」。「彼には話したほうがいい、きっと理解してくれると思ったのです」と彼は述懐する。意固地の塊であった少年が、ありふれた偏見から自由でもあった事実をわたしたちは忘れるべきではない。