代償としてのさみしさ
さみしくてどうしようもない時がある。大好きな田中圭がテレビでいつものように輝いていても、オリックスの田嶋くんが無失点で勝ち星を挙げても、おすそ分けの生クリームどら焼きが存外おいしくてもやっぱりさみしい。度を越したさみしさに私は神経症的な不安で頭いっぱいになり、生きるのが苦しくなるほどの混乱に陥る。
さみしさはそう、いつも視界すれすれの外側にいて、気づけば影のように静かについてくる。
私には離人症の気がある。正確に診断を受けたわけではない。でもたぶんそうなのだと思う。小学生くらいの時から時々、急に自分が誰だかわからなくなることがあった。私はそれを「タイムワープ」と名付けていた。楽し気な語感とは裏腹に、突如全てのものから現実感が失われ、目に見える世界と自分との間に、見えない膜で隔たれたような感覚に捕らわれる。どうしようどうしようどうしよう。混乱して恐ろしさに涙も出ない。このまま気が狂ってしまうのではないか。もう元の自分に戻れないのではないか。蜘蛛の糸一本でぶら下がっているような危さに戦慄する。
そんな時はまず心の中で、自分が何者でここがどこか、自分に言い聞かせるように無言で唱える。「僕は佐藤真治。ここは京都市山科区東野、洛東小学校の階段。今日は昭和61年5月15日。今は中間休み。次の授業は社会科。。。」
少しは気持ちが落ち着いて、目に見える世界との隔たりをごまかせた気になる。でもまだ崖の端すれすれを歩いている心持ちは変わらない。ひとたび奈落に落ちてしまった人間は、元には戻らず廃人として残りの人生を過ごさなくてはならない。そう信じ込んでいた。
怖くなってたまらず教室に戻り、誰彼構わず話しかけてみる。内容は何でもいい。とにかく何か、何か話さないと。
「たっつん今週給食当番やったっけ?」
「ちゃうでー、先週一緒にやったやん。」
「そ、そやな。忘れてた。てか給食当番のエプロンてダサくない?」
「そうかー、なんで?そんなん考えたことないわ。」
「先週あれ、ほっしゃん汚して怒られてたやん。白いから汚れ目立つねん。」
中身の全くない会話でも、人と言葉をラリーするうち、言葉を打ち返すことに集中していると、自然とタイムワープは消失してくれている。アニメーションなんかによくある、天使の輪っかをつけた魂がふわふわと身体から離れていくところを、無理矢理引き戻されて正気に戻る感じ。
離人症を苦にして誰にも言えずに自殺する子供もいるそうだ。結果的に私はその道を選ばなかったが、そうならなかったとも言い切れない。幼すぎた私は、恐ろしくてこのことを家族にも先生にも伝えることができず、ことあるごとに、この誰にも言えない奇妙な現象が起こらないよう祈るしかできなかった。七夕の短冊にも、文集の「ゆめ」欄にもその願いを書くことはできず、ただ近くの神社に行って、こっそり「あの『タイムワープ』がもう二度と起こりませんように」と祈っていた。ただ「タイムワープ」のことを考えてしまうと、却ってそれを引き起こしてしまいそうで、いつもは考えることさえ忌避していた。無力な子供だった私は結局、夜中に不安になってはひとりめそめそ泣くしかすべがなかった。
しかしながら年月は偉大なもので、時を経て大人になるうち、この離人症もほとんど発症しなくなった。たとえ発症したってリカバーできる。そのままおかしくなってしまうことなんてないと、経験的にわかるようになった。
私はこれまで一度も離人症によって滑落することなく生きてきた。あの日の誰にも言えなかった小さな願いは、いつの間にか叶っていた。
その代償ではないが、離人症の恐怖を克服して大人になった今、今度は自分ではどうすることもできないさみしさに苛まれている。
予定のない休日、独りで暮らすには広すぎる実家で、私は朝から掃除機をかけ、洗濯物を干して風呂とトイレを磨く。集中しているふりをして、どこかに潜むさみしさから目を逸らす。麦藁帽をかぶって雑草を引き、K-Popをかけながら鼻歌を歌っている間は少しだけさみしさを遠ざけることができる。それでもさみしい時は助けを求めて、久しく話していない友人や元カレに電話してみる。一通り互いを懐かしんで、通話を終えて空っぽの部屋に居ると、また自分が独りきりだと我に返る。結局のところさみしさは消えない。どうすればいいのかわからなくなって独り途方に暮れる。
幼少期のように、さみしくて涙を流すことはない。でもタイムワープの世界から戻れないかもしれないとびくびくしていた時と同じように、解決方法も道しるべもなく、だだっ広い平原に置いてきぼりにされたように、ただ茫然としてしまう。厚木や市川で働いていた時は、夜行バスに飛び乗って実家に帰れば、そこには変わらず家族や愛犬がいて、一時的にではあるが心慰められた。今はもう、帰る家は独りで住むここしかない。
オリンピックで一本負けをした選手が号泣した件に触れて、ある精神科医が、「涙を流すことは、その人にとってのショックやストレスを回避する大切な反応であり、非難されるべきものではない」といった旨のコラムを新聞に載せていた。
私はずっと「男は涙をみせるべきではない」という風潮の中育ち、それを信じて生きてきた。離人症のときも泣いたらすべてが崩れてしまいそうで、人前では決して涙を流さなかった。私の長年の「絶対泣かない」という意地は、ストレスコーピングの下手さから長期にわたるうつ病を招いただけでなく、きっと自らのマインドを開くことから遠ざけ、周りから伸べられる手を無意識にはねのけていたのだろう。そんな生き方を五十年近く続けていた私も、涙を隠さず素直に自己開示して生きていければ、こんなさみしさからも解放されるのだろうか。正直なところあまり自信はない。
これから先さらに歳をとるにつれ、きっと今いる数少ない友人は減りゆき、疎遠にもなる。私はまた、幼いころと同じようなことを繰り返すだろう。神社に、星に、墓前に願う。
「どうかさみしくて気が狂ってしまいませんように」