「空間を捉える——森岡貞香の中庭と部屋」(「短歌人」2022年2月号掲載)
「短歌人」2022年2月号に、「空間を捉える——森岡貞香の中庭と部屋」を掲載していただきました。森岡貞香の“中庭”や“部屋”の歌を中心に取り上げ、読み手側に空間を立ち上げるために歌で何が行われているのかを検討できれば、という文章になりました。
引用した歌はこちらです。
母の住む離れの庭に日の差して母屋より同じき中庭の見ゆ 『百乳文』
このゆふべ芙蓉の萎るる花踏みて母はふたたび母屋に來たりし
秋晴れのあしたの氣流 白き毛布をかむれる母の庭わたり來し
紅茶をばささげて離れにわたりたれ槇の木のへりを流るるにほひ
冬の日にあなゆたかなる椅(いひぎり)の赤き實位置を變へたれば見ゆ
へや二つ走りて通るときありて髪止めのp i n その閒に落つ 『夏至』
厨房よりいつさんに走りゆきたりきへやに居りにしひとときの後
何とも言えずよいですね。
何とも言えず、というのはなんとかならないものかという思いはずっとあり、そこのところをがんばって書きましたので、ぜひお読みください。
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原稿では省略した自分の「読んだときの感じ」をここに補足しておきます。上に挙げた歌の1首目から4首目の歌などは母屋と中庭と離れの距離が私には非常に具体的に感じられて、何度も読んだ今ではほとんど私自身の記憶に近い感触になっていっている。立ったことなどない場所なのに、不思議に思うほどです。「庭に出るには濡れ縁を下りるので目の位置が低くなり角度がこう変わるだろうな」などと想像が進む、というか、歌から与えられた情報により脳内で十分計算可能という感じがしてきます。
この評論は昨年12月上旬に送稿したもので、少し時間が経ったいま改めて考えるのだけれど、文中で使った“視点”という語は映像などのカメラを想起させて混乱を招いてしまうかもしれない。森岡貞香の歌を読んでいるときに感じるのは、視覚でありカメラではない、「自分が何かを見ている(あるいは見えた)ときの感じ」で、それが凄い、ということを考えているのですが、ちょっとまだ言葉が足りてないなと思います。
そして、さらに連想で、アメリカの写真家スティーブン・ショアがオンライントークで話していた「何も見ていないときに見えているもののように撮る」という言葉(私の記憶のみなので不正確ですが)も、改めて思い出すなどした。ここで写真家の話を出すとさらに混乱させるかもしれないけれど、「何も見ていないときに見えているもの」というのは大事な話だと思う。できればもう少し掘り下げてみたい。
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『定本 森岡貞香歌集』を手に入れたのが2014年の夏で、そのときとは自分の読み方、感じ方もだいぶ変わっている。この先変わることもあるのかな。とりあえず、現時点の記録としてはここまで。