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クラシックコンサートに行ってみた人の思考

東京に行く機会を得たので、一泊して、晩は舞台鑑賞をしようと決めた。都会にはこれがあるので、夜まで暇をしなくて済む。だいいち、「生」の芸術に飢えていた。
音楽、舞踊、サーカス、演劇、「生」であればなんでもいい。投げやりなのではない。なんであれ楽しめると思ったのだ。

ローチケのサイトでウンウン言いながらその日の演目一覧を繰っていたら、横文字のひしめくなか、「新進芸術家海外研修制度の成果」とかいう、文字の密度が他と段違いなタイトルが目に飛び込んだ。

いいな、これ。当日までまだ2週間ほどあったが、席はほとんど埋まっており、3階席をすぐに予約した。「手すりが邪魔になって舞台が見えにくいです」と開き直りきった公式アナウンスに改善の努力をしろと思いつつも、一介の建築学生としてはシューボックス型の欠点をこの目で見ておきたいし、上からというアングルは新鮮で良さそうだ。


物心つくかつかぬかという時分に、父親に連れられて第九に行ったことがあるが、母には絶対に買ってもらえないのでほとんど無いものとしてみなしていた紙コップの自販機で、頼みもしないのにココアを買ってもらったこと以外あまり覚えていない。妙に広い公園で、その日は蒸したように思うが、第九は冬の風物詩、やはり混沌とした記憶だ。
今日は公演中に雨でも降ったのか、ホールを出たら駅に続く花崗岩のタイルが濡れてひんやりと冷え込み、興奮の渦中にあった身体はいとも簡単に縮こまったが、ともかく、今日のが初めて自分の意思で予約し向かったクラシックコンサートであった。

開演の30分前まで用事があったので、東京の地下鉄が深すぎるのを恨みながら猛スピードで移動を行い、汗だくでホールのロビーに到着した。あの瞬間にホール中で最も余裕なく疲弊していたのは私であったと断言できる。

貧乏人は3階席っとわざわざ卑屈になることもないのだが富豪たちを横目に階段を上り、若干席探しにもたつきつつも着席。ふうーっと一息ついた。
隣はいないが、向かいの3階席とはお互いがはっきりと視認できる距離だ。変顔とかしたらギリ分かるレベル。しませんよ。通路を挟んだ隣には、私と同じようにスーツを纏った同じくらいの歳の男の子がいたので、いささか驚き、あなたもインターンでしたか?と聞きかけたが、もしかして音楽家のタマゴはスーツでコンサートに来るのかもしらない、もしそうだったらついでに来ました風情が「あなたもですか?」とは甚だ失礼である。音楽家のタマゴが通常3階席では聴かないだろうが、たとえば今日の出演者と知り合いで、目が合うとなにか重要な問題が起こるようなわだかまりがないともかぎらない。終演後そそくさと出て行ったのは、決して帰りの新幹線に間に合おうとしたのではなく、誰とも顔を合わせぬように急いだのではあるまいか。あるまいな。妄想はまあまあ得意な方である。
携帯電話の落下にご注意くださいというアナウンスがあったが、たしかにこの高さから物を落とされたらたまったものではない。誰も物を落としやしないだろうというすごい信頼のもとで成り立ってるな、舞台、と空恐ろしくなった。
とはいえ例えば演者の方でも、誰も立ち上がって別の演奏を始めやしないという信頼が当たり前の顔をして成り立っているわけで、実に面白い社会だ。

パンフレットを開いたら、多色刷りの分厚い紙からしか匂わないあの匂いがふわっと香り、思わず人目も憚らないでスンスンしてしまった。そのあとで人目を憚った。
さて、開演。

果たして、私は過日の直感に感謝した。

4人のソリストが順番に登壇し、1人目のチェリストが退場する頃、私はズビズビに泣いていた。
本公演の主題である「若き才能」に心震わされたのは勿論であるが、オーケストラには底なしの魅力があった。
名前がないってなんて美しいんだろう。
オーケストラの一人一人の名はパンフレットには載らないし、顔も載らぬし、珍しい楽器でも紹介もされない。それでも、いやむしろ、そのことこそが、彼らの演奏を圧巻のものに仕立て上げているとすら感じた。名を取らないことがこんなにも美しいとは知らなかった。
私の席からはヴァイオリンばかりが見えていたが、みんな、自分の楽器にいまにもキスしそうだな、と思った。
いいな、本当に楽しそうだ。私もチェロとかやりたい。昔バイト先のひょろひょろの上司がチェロをやっていたと言い出して必要以上に驚いてしまったのを思い出す。

考えていることが流れていかないように何度も同じところをなぞって脳に書き残すけれども、次から次へと情報が入ってきて、音楽があふれでてしまいそうになるので、閉口した。かわりに涙だけがあふれればいい、とそれの流れるままにしていた。動いてノイズにならないようにしていたら鼻が詰まって息ができなくなったので、物理的には開口した。

舞台を食い入るように見つめながらごちゃごちゃと考えていたが、曲の最後に指揮棒とヴァイオリンの弦が上空で自然なシンクロを生む瞬間があまりにも気持ちよく、カタルシスとでもいうのか、忘れないように忘れないようにと書き溜めていた脳内のメモがふっ飛んで、マスクの下でにこぉーっと最大の笑顔になってしまう。生きてるなー!!と思った。なんか、、踊りたいかも!!!
なぜ誰も踊らないの!?


生音ってすばらしいなと、二つの意味で、軽音楽部出身の私は思った。たまにでも舞台に聴きにくるべきだ、心が満たされるから、という話が一つと、もう一つは、ミキシングもしてないのにこんなに全ての音が聞こえるなんて、という話だ。コンサートマスターがよく靴をパタンと上下させる人で、その音さえ、聞こえる気がした。

先にも触れた通り、私の席は上手の3階席でヴァイオリンがよく見えたのだが、弦が一斉に動く様が美しい。波のようだと頭に書き残したが、それでは月並みだと考え直し、「光の束のようだ」と上書きした。
これはそれなりに気に入ったが、しばらく譜面が休みの時にヴァイオリンをパタパタと膝に下ろす動作、これが何にも喩えられず苦悶した。何かに似ているのだけど、、貝?家々の電気が消えていく様子、、うーん。もっとゆっくりとした、長さのある動きなのだ。一番しっくり来たのは、「ディズニーアニメみたい」だった。何を言っているのか分からないと思うが、私も分からない。現実を見て、現実を模したアニメみたいとは、滅茶滅茶だ。

ヴァイオリンの拍手がかわいいことはテレビで見て知っていたが、特別盛り上がったときは足も鳴らすようだ。全身で表現していてかわいい。


それにしても、やはり打楽器は特別だなあ!ティンパニなんて一生見ていられる。いや、金管なんかも、どうしようもなく華やかで素敵だ。
と思った次の曲、
弦は雅で良い、この滑らかな音のつながりは弦にしか出せない。
待てよ、木管は最高だ、なんて複雑な音色。この場所も木でできていることが急に感ぜられ、包み込まれる心地よさ、胎内のような。。我々は皆、木の胎内で生きているのか…?
しかし次の曲、
結局鍵盤か、こんなに表現が豊かな楽器は他にない。1人で出せる音が多すぎる…。
いや、表現の豊かさで言えば、指揮者とはなんたる自由な存在か……。

と、全肯定botになってしまった。

しかし低音が至高であることはまちがいがなく、低音域の楽器は勿論のこと、高音域の楽器の最低音もまた、鋭い迫力があって趣深い。勿論のことと言ったが、今回はあまりチェロもコントラバスも見れなかった。次は下手側に座って、上手の低音楽器でお腹いっぱいにしたいものである。これは比喩でなく、低音は食べるものだという持論があるのだ。


よくもまあクラシックのことが何も分からないくせにこんなに思考が溢れるものだ。クラシックに精通しているであろう人々がみっちり詰まったこの空間には、いったいどれだけの思考と感覚が溢れていたのだろうか、と、退場していく人々をぼんやり眺めていた。

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