
国立西洋美術館の前庭ー過去を選別して価値付けすることへの嫌気
国立西洋美術館、10年ぶりくらいに行ったら、
考える人ってこんなに何もないところにいたっけ、、?前庭はもっと大きくなかったかな、、?と違和感を覚え、きっと自分の体が大きくなったんだな、とほっこり解決していたけど、やっぱり最近整備工事があったらしい。
がらんどうって感じで少し寂しい。


絵が下手すぎるのだが、赤い点が、考える人とカレー市民の彫刻である。(※近代建築2022.10を参考に描きました。参考資料があるとは思えないクオリティ)
コルビュジェの設計意図を復元した、ということらしいのだが、
それって必要?
初期のような状態に戻すことで歴史的価値が保てる、ってのもよくわからん。
歴史的価値と言うなら、"整備前"の庭に積み重ねられてきた歴史の価値はどうなる??
幼少期にはこのあたりにもよく来たのだが、私の記憶の上野はいとも簡単に塗り替えられてしまった。
建築のこういうとこ気に入らないよな。コルビュジェの設計意図を掘り返して復元することに、いったいどれだけの意義があるのだろうか。
少なくとも私にとっては、私の記憶にある前庭が、ほとんど「無価値のもの」として扱われているように感じ、嬉しくない。
それと、あの檻も問題で、たしかに中から見たら上野公園と連続する感じにはなってるけど、それなりにセットバックしてるし外から見た時の印象ってあんまり公園との連続性を感じないけどな。
と、言っていたら、今読んでいる本に引用されていた、槇文彦の『記憶の形象ー都市と建築のあいだで』の一節がタイムリーだったのでメモ。
「個人個人が持つ記憶の中で、幼少の頃に遭遇し培われたある種の空間体験が実は彼にとって良い〈まち〉あるいは住みにくい〈まち〉の評価を行うときに決定的な要因になるのではという仮説-
幼少期の記憶というものが、それぞれのひとにとって、まち(あるいは空間)の良し悪しの判断基準になるのかも、という話、わかるなあ。
続く文がもっと印象的で、
人間とは、実は単に「見る」とか「使う」ということだけでなく、物的環境からある種の記憶を絶えず発見しようとしているのではないか」
ほお〜。
前半はやっぱそうだよね!みたいなことだったけれども、後半は一歩踏み込んだ視座、というか、大きく出たな、というか、、
原風景をさがし"続け"ている?
お気に入りのお店や公園を見つけることや、旅をすること、すべて原風景をさがし続けていることが根底にある、と捉えていいのだろうか。
「スター建築家のスター建築」としての扱われ方に嫌悪を示しつつ、槇文彦全面肯定ワイ👶