真面目な社畜の不真面目な人生考察-03

負荷≠我慢

楽しい事だけで生きていけたらどんなに楽なんだろう。昨日旦那と弾丸ツアーと称して、鳥羽水族館とパルケエスパーニャを渡り歩いたのが、大好きな人と「次はあっちや! 赤福買うぞー!」とかまるで学生みたいにはしゃぎまわった1日が狂おしい程に面白くて、すごい幸福度だった。

今日は、そんな日の帰りにふと思った、ストレスについての話。

私は学生時代、中学(バスケ)、高校・大学(アーチェリー)と体育会に所属していた。(バスケで腰や足首を散々やってからは、激しい運動ができなくなったため、アーチェリーに転向したという経験がある。)

運動や筋トレとかが好きな人は分かると思うが、筋肉は負荷をかけないと成長しない。身体が「しんどい、もうあかん!」って思った時こそ追い詰めて、筋肉の繊維(だったか?)をズタボロにして、休ませて回復すると筋肉はより成長するのだ。休ませるってのはポイントらしい。アイシールド21って漫画にも書いていた。
あと、どんなスポーツをするにしても体幹を鍛えるのはおすすめ。特にアーチェリーは筋肉よりも体幹が必要である。
……っと、そんな豆知識はどうでもいいとして。

何を言いたいかというと、筋肉のように、人自身も「ある程度の負荷がないと成長はできない」ということ。

ゆるゆるした楽な生活をしている人と、日々厳しい戦いをしている人だと言葉の重みやら、その人から感じる経験値やら、他者見ても違いを感じられると思う。
だから負荷は大切だ。自分の成長を願うなら、楽な道ばかりでなく、負荷がかかる道にもいかないといけない事も出てくる。

こんなことを考える私は、成長欲がものすごく大きい。年単位、月単位、なんなら1日単位で成長を感じたくなる。立ち止まる事にひどく怯えてしまうのだ。だから、やれる事が増えたら嬉しいし、逆にこれ以上やる事がないと感じると新しい事を始めていく。その時にかかる負荷は成長のためだと信じてやまない。

しかし、ふと思う。
ストレスという言葉で私はあらゆる事柄を「成長のための負荷」として捉えていた。けれど本当は違うのではないか?っと。
具体的に言うと「負荷」と「我慢」。これは厳密に言うと別物だと感じる。

この違いが顕著なのが、対人関係。特に他人の愚痴を聞く事は何の意味もない気がしてならない。誰かのサポートをする、これは自己成長につながるだろうけど。相手の愚痴を聞くと言うポジションは、最近の私の経験から言うと、愚痴という名のグローブでボコボコとサンドバックにされているような感覚になる。

これはたぶん、私の性格が大いに影響している。私は人の話を聞きすぎるのだ。聞きたくなくても頭に入り、深く思考する。だから毎日同じような愚痴を聞かれされるとパブロフの犬のごとく、反応してしまう。まるで呪詛だ。
ただ私はそんなものでさえ、自分は今の仕事を自分のものにするための要素と思っていた。しかしまぁ、GWでその呪縛から逃れた現在。心が穏やかになっているのを感じて初めて「ああ、我慢をしていただけか」ということかというのに気づいた。そのため、GW明けを想像し苦笑せざるおえない。

楽しい事だけしてそれで生きていけるなら、本当はそれがいいのかと思う。きっとその状況でも自分の成長を望む人は、己に何かしらの負荷をかけるだろうから。
だけど、「我慢」は身体を壊すだけである。「負荷」と「我慢」。そのどちらなのかを見極めて、「我慢」なら手放す算段をした方が健全だろう。
私も自分を見つめ直すいい機会になったが、さてはて…。

本日はこれまで。
閲覧ありがとうございましたー

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