流星群 14
14
突然、前触れもなく家がガタガタと揺れ動いた。
その音は、二階で誰かがドンドンと飛び跳ねている音に聞こえる。
街子もじいちゃんもその音には気づいていない。二人は先程と何も変わらない姿勢で、街子はぼんやりとしながらテレビを見ていて、じいちゃんは右足の親指の爪を切っている。僕は天井を見上げながら、ぼんやりとしていた。
「兄さん?どうかした?」
街子は不思議そうな顔をしていた。
「二階に、誰かいるような気がするんだけど。」
「何?泥棒か。」
じいちゃんは爪を切る手を止めた。
「いいや。そういうのじゃないと思うよ。」
僕は首を横に降った。
「風だな。風。」
納得したように、じいちゃんは爪切りを再開させた。
「気になるの?」
街子は僕に質問をした。
「うん。」
僕は質問に答える。
「分かった、二階に行こう。」
街子は立ち上がる。
「じいちゃん、二階見てくるね。」
「おお。寒いから気をつけてな。」
じいちゃんの言うとおり二階はとても寒かった。肌にピリピリと突き刺すような寒さが全身をくるみ、足元の靴下の隙間から入り込む寒さを除けようと、僕は何度も靴下を上に上げた。街子はとても神妙な面持ちで僕の隣を歩く。一歩一歩を確かめるように階段を一段ずつ上っていった。
「ねえ。兄さん。この先には何がいるの?」
「なんだろうか。」
「良いもの?それとも悪いもの?」
「悪いものではないよ。嫌な気持ちがしないからね。」
「なら、なんでもいいの。」
街子は安心したように、少し微笑んだ。上を見上げると、真っ暗な階段が続く。踊り場の窓のカーテンの隙間から、窓枠に積もる真っ白い雪が見えた。
「あのね。兄さん。」
少し前を歩く街子が僕に言った。
「わたし、そこの踊り場の所で待っててもいい?」
「どうして?」
「なんとなくね、わたしには行けない気がする。一人でも大丈夫かな」
街子の顔はとても真剣だった。
「分かった。」
僕は決めた。
「僕一人で行ってくるよ。」
そうして僕は、二階へ上っていった。
二階はとてもひっそりとしていた。全ての音が柔らかい毛布に吸い込まれたかのように、シンッとして耳が痛くなるほどだった。窓がガタガタと揺れた。風が窓を揺らしている。窓枠に積もった雪が、さらさらと落ちていった。
廊下の先は、何も見えない。そこは完全な闇の世界だった。徐々に目が慣れると、少し先が見えてくる。目を細めると廊下の脇に置いてあった本棚やみかんの箱、それから小さな椅子が置いてあるのが見える。硬くなった足を一歩前に進める。最後の階段を上った。
後ろを振り向くとそこにいるはずだった妹の姿は見えなかった。僕は一人だった。
廊下の先を見つめる。さっきまで見えなかった廊下の先がぼんやりと見えてくる。今まで味わったことのない気持ちだった。胸の奥と足の指先がざわざわとしている。足が動かない。呼吸を三回した。一度と二度は浅く、そして三度目はとても長く長く息を吐く。肺に残る肺を全て吐く。そして冷たい新鮮な空気を入れる。それを何度も何度も繰り返すと、身体全体が冷たい新鮮な空気で満たされる。身体が新しいものに生まれ変わる。前をしっかり見つめて背筋を伸ばすと、僕は別人に生まれ変わったかのようだった。たったそれだけで僕の足は動く。
一歩一歩足を進める。本棚を通り過ぎみかんの箱をまたぎ、椅子の背を一撫でした。床は柔らかい毛が生えている。歩くと足の裏にさわさわと当たってくすぐったい。それはまるで動物の背中のようだ。歩くと床も一緒にさわさわと動く。それはとても心地がいい。くすぐったくて笑ってしまう。それまで怖かった闇が一気に身近なものになる。怖くない怖くないと、何度も自分に確かめる。
廊下の奥に僕の目指す場所がある。それは一点だけどんなに目が慣れて薄暗い世界になろうとも、そこは真っ暗なままだ。そこは凝縮された闇だった。僕の足はそこに向かって歩き続ける。
僕は、その姿を見たことがあった。それは何度も見た後姿だった。
艶やかな毛はいつもより黒々と光っている。それは闇の中のほんのわずかな光りさえ吸収してその背中で光らせている。その光りは滑らかに、背中が動くのと同時に光り輝く。
「どこに行っていたの?」
背中は答える。
「どこにも。ずっと君の後ろにいたよ。」
僕は答える。
「そうか。あれは君だったんだね。」
背中からゆっくりと僕の方を向く。その目は金色に輝いている。
「僕らはずっと隣にいたんだ。」
僕は呟いた。
「それに気がついたのは、君だけなんだよ。」
彼女は僕の目の前にいる。その目は金色の光りを目に宿し、チカチカと光りを放っている。小さい星が目から飛び出し、僕の目の前でパチンと弾けた。
「目をつぶるよ。」
彼女が目を閉じると、暗闇はその姿を取り戻す。
「それで、ここにはなぜ?」
彼女はゆっくりと欠伸をしながら僕に問う。
「聞きに。これまで僕に起こっている全ての事柄について。」
僕は少しだけ緊張していた。
「それはどんなこと?」
「僕が考えていることと、妹がいるところでは多少のずれがある。それはおそらく僕の頭の中にいくつかねじが抜けているからだと思うんだ。そのねじはどこにある?」
彼女は静かにその話を聞いていた。
「今目の前にいる君は、何の欠陥もないように見えるけど。」
彼女はしっぽを揺らした。
「今ここにいるのは僕ではないように感じる。」
僕が階段を上ってからそこは姿を変えた。それまでの霧がかかっているぼんやりとした世界が、霧が晴れたようにすっきりと瑞々しい世界になる。頭の中がすっきりとしている。それまで使えなかった言葉が口から零れその音がリズムを刻み僕の耳に流れてくる。それは初めて聞く、音楽だった。
「ここはどこだと思う?」
彼女は少しだけ目を開けて僕に問う。彼女が目を開けるとそこに星空が生まれる。
「分からない。けれどとても心地がいい。」
僕は正直に答えた。
「ここは君のおじいさんの家の二階で妹は踊り場で君を待っている。そうだろう?」
「確かにそうです。」
「今はそこだよ。」
彼女は大きな欠伸をした。
「ここにはねじがある。」
「だったらどこにでもねじはある。」
僕は彼女と目が合っていた。彼女は僕の目をしっかりと見つめながら言葉をつむいだ。
「どこにも行くことはできない。」
僕はその言葉を呟いてみる。
「・・・どこにも行くことはできない・・・」
彼女は目を細めた。
「そしてその形を一つ一つ、自分の目で見て収めていくこと。」
彼女は笑った。
「散歩に付き合ってくれてありがとう。」
その時、部屋の床が急にうねりだした。トランポリンのように、僕の身体は何度か宙をはねる。彼女の姿がどんどんと小さくなる。そこにあった全ての音が、僕の耳に集約する。
「耳を済ませて、よく音を聞くように。」
彼女の声が、耳の奥から聞こえた。
気がつくと僕は階段の最終段に立っている。目の前の廊下の光景は、先程と何も変わらない。そのまま後ろを向いて妹の立つ踊り場まで下がった。
妹は寒そうに両手両足を擦っていた。
「あれ?兄さんもういいの?」
妹の鼻が赤い。
「もういいんだ。」
僕は下にずり落ちていた靴下を上に上げた。
「二階は見てこなかったんだね。」
「どうして?」
「上って、すぐに降りてきたでしょ?5秒も経ってないよ。」
僕は後ろを振り向いた。そこはもうただの二階に戻っている。
「下に降りよう。寒い。」
妹は階段を下りている。
「何か見つけた?」
振り返った妹の嬉しそうな顔が見える。
「ああ。おそらく、とても小さなことだけどね。」
僕のはっきりした声に驚いたのか、妹は目が丸くなっている。
「兄さん、変なの。」
妹は笑った。寒い空間に花が咲いたように明るくなった。