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NHK「世界サブカルチャー史」が痛烈に斬る社会世相《単純な欲求というよりも 一種の症状》だ

こんにちは、aicafeです。
40代、人生時計で14:00頃に差し掛かったところです。
これからの人生の午後の時間の過ごし方を模索中です。

帰国して以来、日本のテレビが楽しくてたまりません。
シンガポールでも日本のテレビは見られたのですが、わが家はつけていませんでした。
今、色々録画している番組の一つに、NHKの「世界サブカルチャー史 欲望の系譜」のシリーズがあります。
先日、「アメリカ 分断の10s 第3回」が放送されたのを視聴しました。

この中で、ジョナサン・ローゼンバウムが非常に心に刺さることを話していました。

2010年代のアメリカ社会の分断について、世相を表す映画作品を切り口に三回にわたって描かれています。
第3回で時代を表す作品の一つに選ばれているのは、ジム・ジャームッシュ監督の作品「パターソン」でした。
アダム・ドライバー演じる主人公は、秘密のノートに詩を書きとめることを楽しみとするバス運転手です。でも、その詩をSNSに公開したり出版したりすることには興味を持ちません。SNSで自己承認欲求を満たす行為が蔓延している現代で、自分の評判を高めようとはしない主人公の姿勢が、ハイパー資本主義に対抗する一つの手法として描かれているかのようです。

世の中に今存在して入る物だけで十分だという感じです
お金持ちになることより 
すでに持っているものに感謝することが大事なのです
一方 資本主義は人々が常により多くのものを欲しがり 
現状に満足できないという概念に基づいています
それは 単純な欲求というよりも 一種の症状のように思えます

番組中のジョナサン・ローゼンバウムの言葉

単純な欲求というよりも 一種の症状
この言葉は、インターネットが駆動するハイパー資本主義の世相を痛烈に言い当てていると思いました。

いかに人々のアプリ滞在時間を延ばすか。
そのために脳内ドーパミンを効果的に放出させる仕組みを開発し、
それにユーザーが素直に呼応する。
個人の志向はシステム側に読み取られ、
傾向に応じる広告の表示に従って「欲しい」と思う、
その欲望すら主体性を欠いているともいえる状態。

たしかに滑稽で、病的です。

誰に承認されるでもなく、自らが欲するままに言葉を紡ぎ続ける「パターソン」の主人公は、そうした滑稽さからは一歩引いた、美学があります。
アメリカでやたら流行する❝東洋思想的な足るを知る❞を体現する人とも言えます。

世の中に承認されるためではない、もっと本質的で、原始的で、衝動的な欲求を思い出す必要が、わたし達にはあるのかもしれません。
この、足るを知って一歩引く姿勢が、現代に生じている「一種の症状」に対する処方箋かもしれません。

じゃあ、世界の人が、一様にインターネットから距離をとればいいのか?
というと、それもなんだかなあという感じがします。
もっと、インターネットの善性にも期待したくなります。
それはわたしが、インターネット黎明期からその成長とともに大人になった世代だからかもしれません。

わたしが学生の頃は、インターネットは壮大なご近所コミュニティのようだと思っていました。

昔のご近所づきあいといえば、例えば、急に雨が降ってきたらお隣さんに向かって
「〇〇さん!雨降ってきたわよ!洗濯物取り込んで!」
と叫んで知らせる、というような関係性です。
インターネットって、そういう、人々の声を広く、速く、豊かにつなぐ仕組みだ。そう思っていました。
SNSだって、本質的にはそういうものだったはずのように思うのです。
でもどこかで、わたし達はこのインターネット空間を操縦する主権を、自ら誰かに預けてしまったのかもしれません。

単純な欲求というよりも 一種の症状」。
いずれこの症状に対する効果的な処方箋が表れ、人々が克服した時に、
再びインターネット空間で人間が単純な欲求を表せるようになるのか、
気になるところです。
今のところは、自分にも一種の症状の表れがあることを認知して進むほかありません。

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