Phidias Trio vol.8 "Journey,Wander..."
デンマークのペア・ノアゴー(Per Nørgård)といえば交響曲が有名だ。
シベリウスから始まる北欧文化圏の重厚色彩的な塊の音楽。ニールセンやラウタヴァアラなどと肩を並べる音色の大家。
交響曲だけ聴いているとそんな大枠で認知してしまうのだが、こうしてソロ作品に触れると別の姿が現れてくる。
コンサートの開幕を飾る"Within The Fairy Ring - And Out of it" からして怪しさが滲み出る。
クラリネットソロのための曲で徹頭徹尾メロディアスかつ単旋律なのだがその一本道がだいぶ曲がりくねっている。
作曲者によると妖精に輪になって囲まれているイメージであるとのことだが、優しげなイメージとは異なる。
くねりながら上昇と下降を繰り返す音階が頭を混乱させ、唐突な音のギャップでさらに居場所がわからなくなる。
これは催眠術に近い。ディズニーの優しげな現代妖精ではなく欧州の民話に出てくる妖怪寄りで出会わない方がいいタイプの妖精だ。
'Out of it' なので最後は幻惑から地上に戻ってくるのだがそれは唐突で一瞬のこと。仕組みがわかっても狐につままれた感覚だけが残る。
ある日突然自由になったときの実感の無さ。御伽噺の化身のような曲なのにそのポエジーは非常にリアルではないだろうか。
次の曲も続けてノアゴー、"Libro Per Nobuko - Sonata'The Secret Melody' " 。
第1曲の'1. The Secret(Melody)'が上昇+下降音階でバッハの"音楽の捧げ物"の一曲を思わせるので、後続の曲も何か引用が隠れているのかと探してしまう。
確かにマーラー風な瞬間(2. Roaming)やエルンストの独奏曲で聞いたような和声(3.Singing)があるが正解のようなものはないのかもしれない。
旋律は最初に出てきた後に補足されたりシンプルに抜き出されたりしてより流暢になる、というコンセプトで、隠された旋律とその出現、そして更なる隠されたもの。
アイディアの傾向は「ある部分が他の部分の皮になって次々に新しい層が出てくる」というルチアーノ・ベリオの「玉ねぎ方式」に近いかもしれない。
曲全体は小さな点(メロディ)から始まって、フラジオレットが交互に混じる大胆な動き(4.Playing)に至る。これは観て聴いてとても楽しい。
本番当日オーケストラが来なかったのでヴィオラが単独でジェラール・グリゼイの"音響空間"を最後までやってしまった、事件が発生してしまったのだろうか。
そろそろと摺り足で、時に大胆に成長するという意味において。
最後(5.Melody:Epilogue)は穏やかで美しい時間に回帰して終わる。
最初の妖精の迷路よりは正気に近いがそれでも不思議な旅をした記憶が残る。
前半最後の黒田崇宏氏の"jouney,wander;haziness,frogginess for violin,bass clarinet and piano" の演奏の前に、
演奏者の側から「今冷房を入れた方がいいですね」という提案があった。この後の作品は空調の音が邪魔になるとのこと。
その間ノートの作曲者の言葉を何度も読み返すが全くわからない。以下に引用する通り、ドイツ語を直訳したかのような厳密な曖昧さで、意味はわかるが頭に入ってこない。
「各楽器が異なる音の連なりを演奏します。この音の連なりは一音一音がある音の範囲内において特に決まりなく置かれておく置かれていくものもあれば、
音階として順番に置かれているものもあります。後者は音同士の感覚が広がっていく、もしくは狭くなっていくという特徴を備えている場合がありますが、
両者とも目立ったリズム的特徴はなく素朴です。(後略)」
少し肌寒い中演奏が始まると、なるほどノートの通りだとわかる。
大まかにいえば、全てのパートはそれぞれ2個の点描を受け持っている。
ピアノは低音高音と分かれ、タルコフスキー映画に出てくる時間を置き去りにした水滴を眺め続ける。ヴァイオリンは丘の上の星々と夜、擦弦とピチカートに分かれて呼吸する。
バス・クラリネット、これは空気(Air)である。キー・ノイズらしき特殊奏法の音が対となっているが、ほぼほぼ風の足跡を奏で続ける。空調が邪魔なわけだ。
全体のイメージはサウンドスケープに思えるが、実際に感じるのはもっと具体的な「ランドスケープ」。
しかしその具体的な風景は目の前にない。瞬間をくぐり抜けることで仮想体験のように旅をする。
21世紀において西洋音楽は全体像ありきの構築音楽から先に進んで、アドルノ先生が怒り狂うような瞬間の聴取をかなり大事にするようになった。
しかしこの曲のようなコンセプトのシンプルさに対し、瞬間の連続から具体的にリアリティを提示するのは一般に大変難しいことだと思う。
あまりにも緩やかではあるが旋律はある。しかしその「音楽」から抜け出て連なりと無音の合間に聴く人は彷徨い(wander)、内面の旅(jouney)へ思いを馳せる。
これは想像力の音楽だ。技法上のこだわりのようなものを全て捨て去りコンセプトに奉仕するかのような造形だが、それは確かに効果的に達成されたと感じられる。
休憩。
後場、ソロで割り振られている最後のノアゴー。1966-67のピアノ作品。ドメーヌ・ミュージカルも宴も闌、セリエル全盛期の終わりが見える頃合いだろうか。
時代を反映してかセリエル調の旋律だがより内面へ沈降する前半パート、後半は一気にエクスタシーセクション、要所を除いてほとんどペダル踏みっぱなしの攻めた音質だ。
一言で表すなら「白いスクリャービン」だろうか。開幕のフェアリーリングが人生の知恵を反映しているとしたら、この曲は形式的な単純さが心地よい。
年代が違うが共通点はあり、しかし楽器の特性の違いも十二分に反映され、こうして並べてみると人により好みが分かれそうだ。
川村氏の演奏も明朗で、神秘主義特有のいかがわしさを感じず、ノアゴーの清潔な音楽思考を感じられた。
さて、演奏会で何もかも意外だったのが最後のウストヴォリスカヤのトリオ。
演奏者の熱が段違いなのも可笑しかったが、この独創性をこの演奏会のコンテキストで考えるとどうなるのだろう。
ミーハー的なことを言うと、ハンマー連打で黄色い悲鳴を上げるのが礼儀みたいなところがあると思うが、このトリオのパートのバラつきの何という驚き。
文学ではミハイル・バフチンのポリフォニー論というのが一時流行った。
ドストエフスキーの小説は登場人物が好き勝手やっていて時々奇跡的に調和してポリフォニー的であるという概要で、よくよく考えると色々と思うことがある。
19世紀までのポリフォニーは作曲者が周到に用意した和声の上に成立しており、ドストエフスキーのキャラクターが勝手に動きすぎる現象とは表面的には異なる制御のように思われる。
むしろ、そのポリフォニーはバッハのそれではなくウストヴォリスカヤのこれだ。
このトリオの感性こそがドストエフスキー的なポリフォニーなのではないかと想像する。
この楽譜の独創性の根が多元的な世界観にあるのだとすれば、今回の演奏はまさにそれを正しく表現したように思う。
この演奏を聴いた霊感を強いて表現するなら、既にあった未知への旅。
まさにその通りなのでプログラムの記述を再度引用する。
「クラリネット、ヴァイオリン、ピアノの3人はそれぞれ独立した役割を持ち、衝突し、拮抗し続ける。決して調和することはなく、共に一つのゴールに到達することもない。
3つの楽器の独特な関係性は、何かを暗示するかのようであり、曲は謎めいた余韻を残して幕を閉じる。」(Phidias Trio)
付け加えることがあるとすれば、クラリネットの謎のナレーションで閉じられており、今回のプログラムを通じてクラリネットの楽器として謎性がさらに深まったということだろうか。
作曲家が共謀してこの楽器に魔術的な何かを求めている可能性が否めない、のかもしれない。
コンセプトを作り過去の作曲家へのリスペクトを十分に実演しさらに委嘱作品まで乗っけてくるのは、根本で音楽への理解という専門家のコミュニケーション上の強みがあるからだろう。
現代音楽というコンテンツの魅力が発揮された演奏会だったように思う。
[Date]
2023/7/1 15:00-16:30
[Location]
KMアートホール
[Program]
ペア・ノアゴー "Within The Fairy Ring - And Out of it (1999)"
ペア・ノアゴー "Libro Per Nobuko - Sonata 'The Secret Melody' (1992)"
黒田崇宏 "jouney,wander;haziness,fogginess for violin,bass clarinet and piano (2023)"
ペア・ノアゴー "Grooving for piano solo (1967-68)"
ガリーナ・ウストヴォリスカヤ "Trio for clarinett,violin and piano (1949)"
[Performed by]
Phidias Trio
松岡麻衣子(Vn)
岩瀬隆太(Cl)
川村恵里佳(Pf)