タンパク質への固執
なぜこの記事を書いたか
最近、色な文脈で様々な事象を考えているが、それを人に話すときにまとまりきっていないことが多い。あらかじめ文章に書いておけば考えていることの共有とうまい言語化ができると思ったので書く。
(私は句読点の打ち方が少し変らしいので、それは許容してもらいたい)
タンパク質とシリコンで作る脳
人が死んだ時とPCのBIOSが消えた時の感覚はとても似ている。
死んだ人間は、喋らないし動かない。ただのタンパク質の塊であり重さがあるだけだ。
よく壊れた機械を「文鎮化した」という比喩表現があるが、それと同じだ。
壊れた機械、死んだ人間からはOS、人格が消えてしまいそれらが2度と同じ形で復活することはない。
第3者から見て、これら2つの事象の何が違うのかを考えているが、本質的には何も変わらないのではないかと思う。
人間というソフトウェアはシリコンに実装れていようが、タンパクに実装されていようがどちらでもいい。
ソフトウエアだけで実装できる機能に関しては、シリコンに勝ち目は無いはずだ。
よくこの手の話をすると「人間の温もりが〇〇」とかいう人がいるが、それはハードウェアの問題である。
例えば、普段SNS上で連絡を取ったりする機会があると思うが、あれはシリコンに実装された人間を擬似的に体験できる機会だ、その人ぽい返信を返すことができるのであれば、その文章を生成したのはタンパク質であろうとシリコンであろうとあなたに取ってはどちらでもいいはずである。
直感的にはタンパク質の方がいいと思う人もいるかと思うが、本当にそうであろうか。
シリコンに実装された人間であれば、あなたの話したいない内容を飽きることなくいつまでも聴き続けてくれるし、あなたの都合がいい時間に呼びだぜる。
このように、シリコンの方が我々に都合がいい場面が多い。またタンパク質と違って頭脳として稼働できる寿命も長い。
人間は特別な存在なのか
先ほどからシリコンで作られた脳とタンパク質で作られた脳を比較しているが、そもそも人間をシリコンで作れるのか。
この問いは、すなわち人間の脳は他の手段では実装できない特別なものであるのかという問いである。
現状、人間の脳に近い存在はLLMである。私はLLMの専門家ではないので、LLMで人間の脳と同じ機能を実現できるのか技術的な判断をすることができないが、
私は人間は特別な存在ではないと思っている。
それは、人間もダーウィンの進化論の産物であり、自然という計算機が宇宙が生まれてから今日まで演算させ続けた結果である。
コンピューター上に自然を実装し、十分な演算能力があれば、コンピューターの中という自然の中で生きる人間のような生物を作りあげることができるからである。
最近動画生成AIが開発されつつあるが、あれは非ルールベースの物理シミュレーターである。あの中であれば人間的な生物を作れるのではないかと考えている。
現実世界でりんごが木から落ちる速度よりりんごが落ちる動画を生成する方が早くできるのであれば、自然よりも早い計算機である。
これらの二つの計算機にどれだけ速度の差があるかによって、いつ実現されるのかに差が出てくると思う。
不幸になるタンパク質に固執する人間
ソフトウェアで実装できるタスクにおいて、どこかの時代で、シリコンの人間の方が全項目いおいてタンパク質に優る時期が来る。
そんな時代に我々が生きていたら、我々は素直にシリコンに今まで人間に求めていたことをシリコンに移行していけるだろうか。
タンパク質に固執し続ける人間は、シリコンへシフトした人間よりも不幸になっていきそれらを目の当たりにしながら、固執し続けられるだろうか。
タンパク質に固執しない人類
「変な人類」とされている人たち、例えば初音ミクと結婚した人、Vtuberに本気で恋をしている人たちは、タンパク質への固執を乗り終えた人類である。
彼らに、タンパク質に固執する意味を解かれたときに、ちゃんとした返答をできるのは、あと数十年なのかもしれない。
タンパク質に固執してはいけないのか
そもそも、人間生きていることが自体がコスパが悪い、最初に幸福を感じたタイミングで人生に幕を下ろした方がいいのに、人間は生きることに固執して辛い思いをたくさんしている。
最近、ショート動画のプラットフォームがたくさん出てきて、AIによってリコメンドされた動画を永遠に消費して、時間を使う人が増えてきた。
快楽を一番少ない労力で得る手段の一つなのかもされない。
しかし、ショート動画以外の方法で快楽を得ようと今日も努力している人が多い。
コスパだけでは生きる意味を語れないのが人間なのだなと感じている。