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【小説】スケープ・ゴート 第6話

   第6話

 先生とは廊下で別れて、一人で教室へ戻った。賑やかなみんなの間を通って、そっと自分の席へ座る。

 チャイムが鳴り、朝自習係の女子が黒板に今日の課題を書いた。まだざわめきの残る中で、僕はそっと漢字ドリルとノートを広げる。

 さっきからずっと、斜め後ろからもう一人の僕が冷たい目を向けてくる。僕はノートに覆いかぶさるようにして避けた。丁寧に漢字を書いていく。

 こうしていると、余計なことを考えずに済む。課題が算数でなく漢字でよかった。



「ほら、やっぱりあいつだったんだよ」




 ひそひそと話す声が聞こえた。ノートから顔を上げて周囲を見回す。隣の席のやつが驚いたように僕を見た。

 首を伸ばして教室の中を見回した。けれども、僕に目を向けている人はいない。ほとんどは漢字ドリルに取り組んでいるし、何人かの男子が教室の後ろの方で消しゴムを投げ合ってふざけているだけだ。

 もう一度ノートに向き直ったけれど、鉛筆がうまく握れなかった。手が震えてくる。




「犯人。お金を盗んだ」
「泥棒」




 かっと額が熱くなった。僕を責め立てる声が大きくなっていく。

 泥棒、犯人、お金を盗んだやつ、卑怯者、嘘つき、犯罪者。




 違う!

 お願いだから、聞いて。僕は本当は───。



「みんな、おはよう」

 ドアが開き、先生が教室に入ってきた。席を離れていた男子が慌てて席に戻りながら、不思議そうな顔で先生の顔を見る。

「おはようございます」
「なんだよ、みんな元気ないな。朝メシちゃんと食ってきたか」

 先生の言葉に、一番前の席の智樹がへらへらと笑って頭を掻いた。つられて、何人かの小さな笑い声が続いた。



『やったやつがいるはずなんだよ、この中に!』



 昨日そう怒鳴ってバーンと机を叩いた怖い顔が、今はまるですっきりしている。みんな戸惑いつつも、ホッとしている気持ちが伝わった。いつだってそう。先生が笑ってくれたら、教室の雰囲気は明るくなる。


「慎吾」



 先生に呼ばれて、僕は飛び上がった。椅子が大きな音を立てて跳ねる。次の瞬間、みんなの笑い声がした。

「返事がほしいんだけど、別に立ってもかまわないぞ」

 みんながまたドッと笑う。名簿を手にする先生に、出席を取っているのだと気づいた。

「カッチン」
「タケ」
「ありさ」

 男子も女子も「さん」付けする他の先生と違って、先生はいつもぼくらを下の名前で呼ぶ。あだ名で呼ばれているやつは、ちょっぴり誇らしそうにも見えた。

 出席を取り終えると、先生は教卓に両手を置き、


「ところで集金袋のことだけど、お金はちゃんと戻ってきた。みんなのご両親にも、心配をかけたことを詫びておいてくれ」


 少し身を乗り出して言った。みんな、疑問符を貼り付けた顔で話の先を待っている。けれども、先生はそこで言葉を切ったまま、名簿を閉じた。

 みんなが口を開けないまま、目だけで合図を送り合っていると、



「先生」



 透きとおった声が響いた。見ると、一人の女子がすっと手を上げていた「アリバイのない人が犯人」と言った女子、新田だった。


「それは、犯人がお金を返してきたということですか?」



 誰もが新田の勇気に感服し、同時にヒヤヒヤした。先生と新田の顔を見比べる。



「ああ、そうだ」



 先生が言った。新田に向かって挑むような目を向ける。みんなは新田が次の質問をすることを期待したが、彼女の勇気はそこでおしまいのようで、悔しそうに手を下ろした。

 その代わりに、教室のあちらこちらでひそひそと囁き声が始まった。



「それって、誰かがこっそり返したってこと」
「怖くなったんじゃない。犯人が」
「うちのクラスのやつだったのかな」
「うそ」



 ざわめきは大きくなっていく。みんなの疑問が蜂のように教室をぶんぶん飛び回る。

「犯人、誰だよ」

 誰かの声が響いた。それを真似て、別の人が同じ言葉を繰り返す。僕は一人、机から目を逸らせないでいた。



『心配するな。慎吾のことは、先生が守るから』



 先生の言葉を思い出す。もうすぐ、先生がみんなを静めてくれる。このままでは朝の会が終わらない。




「お金を取ったのは、慎吾だ」



 突然、先生が言った。僕だけでなく、クラス中のみんなが目を瞠った。隣の席の鈴木くんが、下を向く僕の横顔をじっと見ている。



「慎吾は先生に、自分がやったと告白した。そして、お金を返した」



 頭がきーんとした。どん、どん、と低い音が耳の奥で響いている。


「みんな、どう思う」



 先生が教室中を見回した。誰もなにも言わない。



「なあ、トモキはどう思う」



 突然名前を呼ばれた一番前の席の男子は、困惑した顔をして、

「……ダメだと思います」
 僕にもやっと聞こえるくらいの小さな声で呟いた。



「なにがいけない? 具体的に教えてくれ」

 先生が重ねて尋ねる。



「ええと、黙ってお金を盗むのは、泥棒と同じだからです」

 智樹の声はますます小さくなり、最後は消えた。



「なるほど。他はどうだ。カナミはどう思う」

 次に指名された佳奈美は、智樹よりもはきはきした声で、



「置いてあったものを取っただけでも悪いことなのに、勝手に人の机を開けて盗んでいくなんて、最低です」

 頭を振り上げた。新田が激しく首を縦に振っている。



「泥棒して、またお金が無くなったら泥棒して、そうやってくり返しても意味がないと思う」

 次に指名された博人が鼻息荒く言った。



「意味がないっていうのは、どうしてだ」

「だって、そんなのキリがないじゃん」

 面倒くさそうに言ったのはリクだ。



「絶対バレて警察につかまるよ」
「バレなかったら」
「バレるって」
「絶対逃げきる。まあ、俺はやらないけど」

 指名される前に、みんなが口々に話し始めた。クラス中がざわめき出す。


「なるほど。みんなの考えはよくわかった」


 先生が少し大きな声で言った。みんなが静まり返る。


「じゃあ、もう一つ聞きたい。この中で、一度でも嘘をついたことがある人」


 そう言って、先生が挙手を促す。何人かの手がぱらぱらと上がった。ほとんどの男子と半分の女子で、残り半分の女子と一部の男子は両手を膝の上に乗せて静かにしている。



「今、手を挙げなかったやつらだよ、本当の嘘つきは」



 先生が冷たい声で言った。手を上げていた人たちが腕を戻しながら、膝の上に手を置いていた人たちに目をやった。ざわめきが起こる。



「違います、わたし、そんな卑怯な嘘なんて本当についたことありません」



 たまらず、新田が立ち上がった。

「卑怯な嘘ってなんだ。それじゃ、レイコがついたのはどんな嘘だ」

 新田が口ごもる。

「他にも、一度も嘘をついたことがないと自分で思ってるやつ。本当か。思い出してみろ」

 先生が鋭く言った。

「お母さんからお手伝いを頼まれて、『忙しい』と言って逃げたことはないか。宿題をやるふりをして、サボってこっそり遊んだことは」

 え、それもダメなの。そんなつぶやきがあちこちから聞こえる。



「違うと思います!」

 新田が叫んだ。顔を真っ赤にしている。



「そんな小さな嘘と、お金を盗むことは全然違います」

 一部の人が新田の意見に頷いた。特に、さっき手を挙げなかった女子たちはみんな新田を応援していた。



「なにが違う」

「そういう小さな嘘は、誰にも迷惑をかけないし……」


「誰にも迷惑をかけていない」

 先生が新田の言葉を反復する。



「人に迷惑をかけなければ、嘘をついていいのか」

 先生が誰にともなく尋ねる。

「そもそも、本当に迷惑はかかっていないのか」

 新田が静かに座った。返す言葉は見当たらないようだった。



「カンニングはどうだ。あれは誰に迷惑がかかっているんだ」

 いつしか、教室は静かになっていた。そっと見ると、隣の席の鈴木くんが難しい顔で考え込んでいる。



「嘘をついてしまった時、これは誰にも迷惑をかけていないのだからと、自分に言い訳をする。でもな、それって本当だろうか」

 先生の声は厳しくなかった。むしろ、先生もまた自分に問うような、不思議そうな口調だった。



「例えばさっきの話。宿題をやるふりをして、こっそり別のことをして遊ぶのは、誰にも迷惑をかけてないのか」


 

「お母さんを騙してるんだから、迷惑かけてる……」
 先生と目が合った拓真が、ぼそっと呟いた。


「そうだよな。嘘をつくってことは、人を騙すことだ」

 先生がしんみりと言った。



「みんな嘘をつく。一日にいくつも。バレないまま逃げおおせる時もある。そうやって自分が嘘つきだっていうことすら忘れる」

 チャイムの音が鳴った。廊下から人の声がする。けれども、この教室だけは別の時間が流れている。



「嘘をつかない人間なんていない」

 僕だけじゃない、先生の声がみんなの身体に染み入るのがわかる。



「先生だってそうだ、嘘をつく」

 驚いた。子供はみんな知っている。大人は本当は嘘つきだって。けれども、それを決して認めない。



 やっぱり先生はすごい。特別なんだ。



「じゃあ、最後にもう一つ聞いていいか」

 みんなが先生に注目した。



「この中で、嘘をついたことがバレていないのに、自分から告白して謝ったやつはいるか」



 先生が尋ねる。誰も手を挙げなかったけれど、みんながハッとした。ぽつりぽつりと、僕に視線が集まってくる。



「……すごい」



 誰かがぼそりと言った。

「俺だったら無理」
「勇気ある」


 小さい声が上がる。僕は両方の耳がカアッと熱くなるのを感じた。


「確かに、慎吾は嘘をついた。でもそれを告白して、謝ることができた。逃げなかった」


 先生が真っ直ぐ僕のところへ来て、肩に手を置いた。


「この中に、慎吾を責めることができるやつがいるのか」


 僕の肩をつかむ先生の手にぐっと力がこもる。


「先生は、慎吾のことヒーローだと思う」


 先生の言葉が、魔法のように教室の色を変えていく。


 これから僕の世界は一変する。そんな予感がした。

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