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【小説】スケープ・ゴート 第4話

   第4話

「慎吾、ちょっといいか」


 その日の夕方。帰りの会が終わってランドセルを背負いかけた僕に、先生が声をかけてきた。

「はい」

 教室を出て行こうとするみんなとは反対方向に、机と机の間の狭い道を通って教卓へ向かった。誰もそれを気に留める様子もなく、この後に遊ぶ約束について話している。

 先生はたくさんの紙が挟まった大きな手帳を抱えると、

「慎吾にちょっと聞きたいことがあるんだけど、この後なにか用事あるか?」
「いえ、大丈夫です」

 僕の返事に、先生が「そうか」と微笑む。心臓がどきんとして、胸の中で甘いような苦いような味がした。先生が僕だけを見て、声をかけてくれる。そんなこと、初めてだった。

 先生に連れられて教室を出た。

「先生、さようなら」

 帰っていく児童たちが、廊下ですれ違うたびに挨拶をする。人気者の先生と二人で歩いていることが誇らしく、そっと胸を張ったけれど、まるで透明なマントでも着せられているみたいに、僕に気づく人はいなかった。

 先生が入っていったのは、廊下の一番奥にある空き教室だった。

「そこに座って」

 明かりのスイッチを入れながら先生が言った。真ん中あたりに、二つの席が向かい合わせになっている。

 先生はそのまま教室を突っ切ると、カーテンを開け、窓を開けた。空き教室に溜まる、普段使われていない部屋特有の暗さと冷たさが、嗅ぎなれない匂いと混ざって僕の身体に入り込み、下っ腹をズンと重くした。おしっこに行きたいような気がする。



「この時間は涼しいな」

 先生の声に、ふと顔を上げた。少し汗ばんだ額を、秋の風が撫でていった。開いた窓から、グラウンドで遊んでいるみんなの声がわずかに届く。

「食欲の秋だよな。慎吾は、給食は残さずに全部食べてるか?」
「はい」

 嘘だった。魚と野菜が嫌いで、いつも半分以上残してる。

「慎吾はいつも、誰と特に仲良いんだっけ?」
「ええと……、塚原くんとか、鈴木くんとか」

 これも嘘。二人とよく遊んでいたのは三年生までで、最近は教室で顔を合わせても挨拶するだけだ。

「そうか」


 先生は手にしていた大きな手帳になにかを書き込んだと思ったらペンを止め、じっと考え込んでいる。



「昨日のことなんだけど」

 やっと先生が切り出した。

「慎吾、昨日は遅刻だったよな」

 思わず首をすくめる。けれども先生は僕を叱るわけではなく、

「その時のこと、詳しく教えてくれないか」
 と言って、僕の顔を覗き込んだ。



「詳しいことを調べて行けば、お金を盗んだのが誰だかわかると思うんだ」

 あんまりじっと見られて、緊張した。うまく言葉を出せないでいると、

「慎吾が教室に着いたのは何時だ」
 少し焦れたように先生が尋ねた。


「ええと……」
 厳しい目線に急かされ、必死で記憶をたぐりよせる。



「確か、警備員さんに門を開けてもらった時に、チャイムが鳴ったと思います」


 遅刻はいつものことで、すっかり僕の顔を覚えた警備員さんが苦笑いしながら僕を通してくれた。そのタイミングで、一時間目が始まるチャイムが鳴った。

 朝の会にまるで間に合わなかったのだから、三十分以上の遅刻だ。改めて叱られるかと首をすくめたが、先生は僕の言葉をメモするだけだった。


「警備員さんとは話したか?」
「はい、挨拶しました」

 公立の小学校だけど、門のところにはプレハブ作りの小さな詰所があって、市から派遣された警備員さんがいる。

「それからどうした」

 考えを巡らせる。昨日の朝のことなのに、ずいぶん前のことみたいにぼんやりとしている。

「ええと、教室に行ったら誰もいなくて驚いて、でも今日は火曜日だったって気づいて、急いで音楽室へ向かいました」

 答えながら、ふとあることを思い出した。みんなと一緒に音楽室から戻った時、僕のランドセルが開いていたんだ。

 その時は、自分が開けっ放しにしたんだろうと思って、深く気に留めなかった。でも、よく考えたら違う。だって音楽の教科書はいつも学校に置いてあって、僕はそれを手にして慌てて音楽室へ向かったんだ。


 ひょっとしたら、お金を盗んだ犯人がやったのかもしれない。みんなの机を覗いた時に、僕のランドセルも開けたんだ。だから、犯人は僕が音楽室へ行った後に教室へ来た。


「あの」
 呟いた声は小さすぎて、開いた手帳をじっと見つめていた先生の耳に届かなかった。


「あの……」
 もう一度声をかけると、先生は顔を上げ、僕に笑いかけた。


「ありがとうな。よくわかった」
 いつもより親しみ深い笑顔で、僕の頭にぽんと手を置く。


「あの、僕……」
 言いかけた僕を遮るように、


「いや、先生は別に慎吾を疑っていたわけじゃないんだよ。ただ、詳しく話を聞きたかったんだ」

 先生が早口で言う。それを聞いて僕は初めて、自分が疑われていたことを知った。



「今日はありがとうな」
 促されて椅子から腰を上げた。

「引き留めて悪かったな。また他のやつにも話を聞いてみるよ」




 終わってしまう。



 先生との、この部屋で特別な時間が、もう終わってしまう。




 僕が本当に聞いてほしいこと、まだひとつも話せていないのに。


「気を付けて帰れよ」
 ぽんと肩に手を置かれた。大きくてがっしりした手。大人の男の手だ。



『また他のやつにも話を聞いてみるよ』
 他のやつ。それはきっと、まだ話を聞いていない他のみんなのことじゃない。

 いつもこの部屋で、先生と向かい合ってるあいつ。わざと心配をかけて、先生が僕に向けてくれるはずの心を独り占めしているくせに、まるで自分だけがこの世界で理不尽な扱いを受けているような、拗ねた顔をしてるあいつ。




 先生の関心は、またあいつに戻るんだ。



「あの、先生」

「ん、どうした。悪いけど先生、これから会議があるんだ」
 言いながら先生がちらっと腕時計に目をやる。


 風が止まった気がした。空気の密度が高くなって、下っ腹がまたズンと押された。



「僕……」



 もっと先生の近くにいたい。特別になりたい。僕を見て欲しい、あいつよりも。



「どうした?」

「あの、僕……」

 うまく言葉にできず、ごくりと唾を飲んだ。その時、先生がはっとなにかに気づき、僕を見て目を瞠った。




 その瞬間、僕にもわかった。今、先生が考えたことを。そして、僕がするべきことを。



「……僕が……やりました」




 先生の瞳の奥に書いてある文字を読み上げるように言った。先生は一瞬のうちに、その目に色んな想いを映した。


「やったって……慎吾、お前」
「僕が、集金袋を、お金を盗みました」


 言ったとたんに、慌てて唾を飲み込んだ。「嘘です、本当はやってません」という言葉が喉の奥から飛び出しそうになったからだ。


「本当か」


 先生が眉をひそめた。僕を疑うように、顔を覗き込んでくる。怖くなって目を伏せた。

 そうだよな、こんなの嘘だってすぐにバレる。先生にはすぐにわかる。今にも叱られるに決まってる。



「えらいぞ、正直に言えて」



 その言葉に驚いて目を開ける間に、強い力で引き寄せられた。先生の腕が僕を抱きしめる。


 いつもお母さんに抱きしめられるのとは違う。先生の腕や胸は僕を跳ね返すくらい固くて、力強かった。どんなことからも、僕を守ってくれそうだった。


「お金はどうした」


 先生が僕を離し、全身に探るような目を向けた。


「い、家です」

「そうか。明日持ってこれるよな?」
「はい」



 指先が震えてきた。なにか言おうとしても、言葉が喉につかえて出てこない。




「先生……」



 違うんです、僕、本当は。



「わかったよ、大丈夫だから」

 先生が僕の頭を荒々しく撫でる。頬が熱いのは、とうに流れ出していた涙のせいだった。

「心配するな。慎吾のことは、先生が守るから」



 その言葉に、僕はやっと喉の奥に詰まり続けていたものを飲み込むことができた。

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