
【小説】スケープ・ゴート 第5話
第5話
お母さんの財布からお金を抜き取るのは簡単だった。
お母さんは、あまり細かいことは気にしない。千円札が二、三枚くらいなくなっても、きっと気づかない。
それよりも困ったのは、正確な金額がわからないことだよ。僕はそもそも、先生から集金袋を渡されないんだ。
ずっと前にもらったはずのプリントを探して、机の上や、引き出しの中、ランドセルの中、ごちゃごちゃ入ってるものを引っ張り出した。でも見つからないんだ。ゴミ箱までひっくり返したけど、やっぱりない。
さんざん探して、キッチンの冷蔵庫の側面にマグネットで留めてある『学年だより』を見つけた。集金の内訳は理科の実験キット。教材費として五百十五円。
一円玉や十円玉をいくつ用意すればいいのか数えて、ありったけの小銭をかき集めたけれど足りない。コンビニでお菓子を買ってお札を崩して、なんとか五人分を作った。
おかしなところはないか、何度も確認したよ。僕がこんなに熱心になにかに取り組んだのは初めてかもしれない。やり遂げた時は、達成感で誇らしいほどだった。
次の日の早朝、僕はビニール袋に入れたお金を持って登校した。学校はまだ眠っているかのように静まり返っている。誰もいない教室で、先生と二人で中身を数えた。
「よし、ぴったりだ」
先生の顔が緩む。まるで褒められているような気分になって、バレないようにそっと笑いをかみ殺した。問題児のあいつの席をちらりと横目で見る。
「慎吾、おいで。ちょっと話をしよう」
僕たちはまたあの空き教室へ行った。
「今朝はずいぶん早起きしたんだな」
からかうように言われて、僕は恥ずかしくなって頭を掻いた。
「自分で、ちゃんと目覚まし時計をかけて起きました」
寝ているお母さんを起こさないように、そっと家を出てきた。
「そうか、偉いな。その調子で、これからも毎日遅刻せずに学校に来いよ」
先生が目を細める。僕はしっかり頷いた。もう二度と遅刻なんてしない。そう強く胸に誓った。
「慎吾はサッカーが上手いんだってな。前の担任の先生に聞いたんだ」
驚いた。恥ずかしくて、不安で、嬉しい気持ちになるよね。自分のいないところで噂されていることを知るのは。
「少しだけ、サッカーのクラブチームに入っていたことがあって」
「へえ、すごいな。先生は子供の頃、野球チームに入ってたよ」
「あっ、僕、野球も好きです。お母さんの友達の男の人が、いつも野球名鑑をくれるから───」
ずっと憧れていた、先生を独り占めして色んな話をすること。
先生がたくさん質問してくれるのが嬉しかった。好きな食べ物の話、苦手な教科の話、それから、僕自身の話。
「お父さんとは、離れて住んでるんだよな」
言葉を選ぶように、先生がゆっくりした口調で尋ねた。
「時々、会ったりするのか?」
僕は首を横に振った。
「顔は写真でしか知らないんです」
「そうか……」
先生の顔を見ていたら、鼻の奥がツンとした。涙が出ないようにぎゅっと口を結ぶ。
先生がお父さんだったらいいのにな。
本気でそう思った。先生が僕のお父さんになってくれたらいい。お母さんと結婚してくれたら。
きっとみんなビックリする。お母さんはみんなが驚くほどキレイだし、先生と並んだらきっとお似合いだ。
「でもな」
その声にはっとした。先生が首を振り、僕に向かって眉をひそめる。
「慎吾が辛いのはわかる。でも、そのこととお金を盗んだことは別だ」
突然針で刺されたみたいに、身体が固くなる。
「わかるよな。もう二度とするな、慎吾」
『はい、すみませんでした。もうしません』
その言葉が、喉の奥に貼りついて出てこない。それとは反対の言葉が手前に立ちふさがって邪魔をする。
「慎吾」
先生が僕の返事を待っている。ごくりと唾を飲み込んでも、どうしても声が出てこない。代わりに、必死で頷いた。
「本当だな」
先生が僕に顔を近づける。
「もう二度とやらないって、ちゃんと言うんだ」
早く返事をしなければいけない。さっきから、先生の声に苛立ちが混じってる。
「……はい」
声がかすれる。
「もう、二度とやりません」
そのとたん、置き去りになっていた心の半分が、耐え切れなくなったように身体から飛び出した。離れたところから、冷たい目で僕を見ている。
「よし!」
先生はそんな僕の身体に腕を回し、ぎゅっと肩を掴んだ。
チャイムが鳴った。いつの間にか、学校が目を覚ましていた。廊下の奥の誰かの声や、真上の教室でガタガタと椅子を引く音が響いている。
「さあ、教室へ行こう」
先生に見えないように、僕は震える指先をそっと握り合わせた。