【小説】烏有へお還り 第12話
第12話
チャイムの音が鳴り、静かだった教室がざわめき始める。柚果は本から顔を上げ、背筋を伸ばした。首がぽきんと音を立てる。
ホームルーム前の朝読書は十分間と決まっている。読書が好きではない人にとっては長く感じられるのかもしれないが、柚果にとっては夢中になったところで中断される、中途半端な長さだった。
読みかけのページに指を挟んだまま、本を裏返しにした。下の方にバーコードが貼ってある。学校の図書室にあるものとも、図書館のものとも違う色だった。小さく『生涯学習会館』と書かれている。
生涯学習会館の中に図書室があることに気づいたのは昨日だ。それほど広いわけではないが、どこになんの本があるのか知り尽くした学校の図書室とは違って、本棚に並ぶ初めての顔触れには新鮮味があった。
大人向けの本の中から自分にも読めそうなものを探すのは楽しかった。別の世界とつながった感覚がする。
けれども昨日、生涯学習会館を訪ねたのは、本を借りるためではなかった。
『……また来てもいいですか』
という柚果の問いに、
『木曜日と日曜日は休みだけど、それ以外は加工場の方にいるから』
と応えてくれた和志に会いに行ったのだ。
和志の言う『加工場』の正式な入り口は別にあったが、生涯学習会館の裏手に回り、雑木林を抜けていく方が近道だった。
こっそり中を覗くと、和志だけでなく大人の職人たちが作業をしていた。とても声をかけられず、扉の外で立ち尽くしていると、
「どうしました」
背後に人が立っていた。咎められるかと飛び上がったが、見覚えのある紺色の作務衣の男性の顔にほっとする。
「あの、わたし、宗田和志くんの……」
言葉に詰まる。『友達』と言ってもいいのだろうか。
しかし男性は、
「ああ、和志のお友達ですか」
と言って目を丸くした。あらためて柚果をじっと見つめ、にっこり笑う。
「ちょっと待って下さいね」
と中に入りかけた男性に、
「あの、いいんです。終わるまで待ってます。お邪魔したくないので」
慌ててそう言った。男性は柚果を振り返り、嬉しそうに目を細める。時計に目をやると、
「それじゃ、あと二十分したら休憩なので、それまでどこかでゆっくりしていて下さい」
と言って、加工場の中に戻っていった。
生涯学習会館の図書室で本を借り、時間に合わせて加工場へ戻ると、作務衣の男性から伝えられていたのか、和志が外で待っていた。柚果の顔を見て、少し照れくさそうに唇をひねる。
「えっ、和志くん、わたしとひとつしか変わらないの!?」
雑木林を歩きながら話をした。聞きたいことは次から次へと出てきた。
「じゃあ、中学三年生ってこと」
隣を歩く和志を見上げる。ひょろりとした痩せ型のせいか、よけいに背が高く見える。顔つきも細くて大人っぽく、穏やかな表情は年齢よりも落ち着いて見えた。
「どこの中学校? 市内?」
ひょっとして同じ中学ということはあるだろうか。柚果は和志の顔を改めて見直した。校内で和志を見かけたことはないが、上級生と交流したことがないから気づかなかっただけかもしれない。
もし和志が同じ学校にいてくれたら、それほど心強いことはない。
「……」
しかし和志は柚果の質問に答えず、じっと黙っている。
「……あの」
柚果が声をかけると、和志はようやく顔を上げて、
「……行ってないんだ、学校」
小さな声で呟いた。
「……そう……なんだ」
いいな。思わず続けそうになった言葉を押し留める。
嫌々ながらも学校へ通うしかない自分や、部屋に閉じこもる弟に比べて、ちゃんと自分の居場所を見つけている和志を眩しく思った───。
チャイムの音にはっとして時計を見る。ホームルームの時間を大きく過ぎ、もうすぐ一時間目の授業が始まる時間だ。それなのに、担任が現れない。
おかまいなしに騒いでいるのは亜美のグループなど少数で、クラスの半分以上はこの異常事態に気づき、顔を見合わせていた。こんなこと、今までに一度もない。
ふいに扉が開き、担任が現れた。席を離れていた生徒たちは慌てて立ち上がり、ほっとした表情で席に座った。担任が今にも「ごめんごめん」と笑いながら遅れた理由を口にするものと、誰もが思っていた。しかし彼は厳しい顔で、手にしていた出席簿を静かに教卓に置いた。
生徒たちは神妙に黙り込んだ。教師が叱責を始めるものと、首をすくめている者もいる。静まり返った教室には、咳払いひとつ響かない。
担任はやっと顔を上げた。生徒たちの注目が一点に集まる。
「……昨夜」
担任が呟きかけ、ためらうように唇を噛んだ。叱られることを覚悟していた生徒は、担任の力ない声に目を瞠る。
思い切ったように息を吸い込み、担任は苦い顔で口を開いた。
「昨夜、隣のクラスの高田志穂さんが亡くなりました」
「えっ」と鋭く叫ぶ声がした。「誰?」とひそひそ尋ねる声がする。柚果は凍りついたまま、担任の顔を眺めた。
『あたし高田志穂。よろしくね』
そう言って目を細めた体操服姿の彼女が、記憶の中で顔をくしゃっと歪ませた。
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