【短編小説】望月のころ 第5話
第5話
キッチンの明かりだけを灯した薄暗いリビングに、コーヒーメーカーの音が響く。窓の外は暗く、雨がしとしとと降り続けている。
眠れなかった。本を読もうとしても、映画を観ようとしても、なにも頭に入ってこない。
どうせかき消すことができないならと、コーヒーカップを手に、窓ガラスに貼りついた水滴を眺めていた。
「ありがとう。ホントに助かっちゃった」
そんな声が頭によみがえる。後部座席のシートで、さくらは僕に向かって両手を合わせた。
「電車の中でこの子が寝ちゃって。駅を出たら雨が降ってるし、バスもタクシーも長蛇の列だし、途方に暮れてたの」
そう言うと、眠っている操の様子をうかがうように、小さな頭の上にかがみ込む。
「操ちゃん、治ったの?」
バックミラー越しに尋ねた。眠り続ける操は、ぐったりしているようにしか見えない。
「うん、熱は下がったし、食欲もあるの。でも治りかけのせいか、機嫌が悪くて。電車の中でもずっとグズグズ言ってたんだけど、降りる直前に寝ちゃったの」
苦笑いするさくらを労う気持ちで「ああ」と呟いた。本当は彼女の容体も尋ねたかったが、それは口にできなかった。
「武が如月くんに連絡して、迎えにきてくれるように頼んだのかと思っちゃった。よく考えたら、そんなわけないよね」
その言葉に皮肉は込められていなかった。僕にも、そんな細やかな気遣いをする武は想像できない。
「たまたま知り合いを送ってきたところだったんだ」
白々しい嘘だが、それを口に出すことで一つの礼儀を果たしたことになる気がした。さくらが「そう」と頷いたが、僕の話を信じたかどうかはわからない。
『望月さん!』
そう叫んでしまったことは取り消せない。彼女が気づかないふりをしてくれたことに感謝していた。
『望月さくらです』
武が初めて彼女を僕に紹介したのは、高校二年生の秋だ。
『俺のカノジョが女の子を一人連れてくるから、四人で遊ぼうぜ』
武にそう誘われ、待ち合わせた。約束の時間よりも五分前に到着すると、そこには一人の女の子が立っていて、本を読んでいた。
その表紙に釘付けになる。緑の草原に佇む一件の家。憧憬を誘う風景。
一瞬で、彼女の姿が目に焼き付いた。白いスカートにうすい水色のパーカー。丸く出っ張ったひざこぞう。肩の上で真っ直ぐに切りそろえられた髪。そのすべてが光り輝いて見える。
僕はとっさに、背中のリュックサックを下ろした。メッシュ地の隙間から、ポケットの中の本が覗いている。彼女が手にしているものと同じものだ。
「おーい、さくら!」
その声で我に返った。武が彼女の元へ駆け寄り、ふと僕に目を留める。
「あれっ、透」
僕は言葉を無くしたまま立ち尽くした。武が少し照れくさそうに顔をしかめると、
「こいつ、俺のカノジョ」
と言って彼女を指した。彼女が僕に微笑みながら会釈する。腕に抱えた本の表紙にちらりと目をやり、メッシュのポケットを手で隠す。
「こいつが透。前に話しただろ」
武の声に、僕は慌てて頭を下げる。胸に広がる痛みを振り払うように、肩から下ろしたリュックをもう一度背負った。