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憧れのエッセイスト

中前結花さんがnoteに投稿していた「別れるとき、さくらは流れた」というエッセイを読んで、自分が小学生の頃、エッセイストにとても憧れていたことを思い出した。

50メートル走はギリギリ9秒台、英単語を覚えるのも遅く、数学でいつもよりちょっといい点数がとれても、隣の人は私より20点も多くとっていることはざらにある。中学ではバスケ部に入り、休みの日に自主練習をしても、みんなで校庭を走る時にはいつも遅れてしまうし、美術の先生に“ここ、よく描けてるね”と褒められても、その部分は私がうまく描けないと相談した時にその先生が大部分を描いてくれたところだった。

今思えば、自分にセンスがないのもそうだけど、ないならないなりにもっと努力しないといけなかったところを面倒くさがっていただけ。でも、そんな私がひとつだけ人に褒めてもらえるのが作文だった。

得意だと気がついたのは小学校5年生の時で、授業で作文を書く時はクラスで1番に2枚目の原稿用紙に取りかかり、賞や図書券をもらったことや、町の新聞に掲載されたこともある。得意なことをしている時間は、部活で校庭を走りながら置いてかれている時間よりもずっと楽しく(置いてかれるといっても、1つ上の先輩がいつも差がつかないように手を引っ張ってくれていた)、調子に乗って友達の宿題を手伝ったり、弟のレポートにアドバイスをしたり、遂には曾祖母のお葬式で中学生の弟が読んだ弔辞は、全て22歳の私が書いたものだった。祖母も母も、私が書いたことを知っているし、いつも曾祖母が寝ていた部屋で今までのことを思い出しながらコソコソと書いていたから、きっと本人にも気づかれていたと思う。それなら私が読めば良かったのだけど、きちんと読める気がしなかったので、あの時は飄々としている弟に読んでもらって正解だった。現在も無名な私のゴーストライターデビューは、曾祖母への気持ちを代弁してもらったあの弔辞である。

たったひとつの特技だった作文は、学校の授業で点数化されることもなく、国語の成績が優秀だったわけでもないので、得意げにできる機会は本当にわずかだった。もっと活かせないかな?と思って小説を書いてみるも、まったく続かず、面白いものもできず、結局は不得意なことと同じく努力することが絶対に必要だと悟る。面倒くさい気持ちを乗り越えて、自分が夢中になれるものは何なのか。それを探していた時に出会ったのが、エッセイというものだった。

初めて読んだエッセイは、中学の頃に塾の国語の授業で使っていた教材に載っていた、向田邦子さんの「字のない葉書」。前述の中前さんのエッセイを読みながら、寂しくもあたたかく、まるでそこに綴られている日々を見ていたかのような愛おしさが心に広がり、“この気持ち、前にもあったような”と記憶を辿って、10年以上振りに思い出した。

何の作品だったかは直ぐに思いだせず、「中学生 教材 エッセイ」「父は筆豆な人だった エッセイ」「梅干しの種 疎開 手紙 エッセイ」など、夜中にネットで検索し続け、やっと向田邦子さんの「字のない葉書」にたどり着いた。こんな偉大な方の作品を記憶の片隅に追いやり、無知を晒しているようで恥ずかしいけれど、この再会は私にとって本当にうれしいもので、芋づる式に10年以上前のこともたくさん思い出した。

その教材には向田邦子さんの作品がたくさん載っていて、「字のない葉書」をはじめ「学生アイス」「ごはん」、たぶん「ねずみ花火」も読んだことがある。どれも全文が掲載されているわけではなかったけれど、中学1年生の時の自分は夢中で読んでいて、まだ授業でやっていないところまでページをめくって、向田邦子作品だけ先に読んだりしていた。最初に思い出したのは「字のない葉書」の“父は筆豆な人だった”という一文と、妹が梅干しの種を捨てて走ってくる描写だけだったけれど、これを機に『父の詫び状』を本屋で買って読み始めたら、不思議と、当時受けた国語の授業が楽しかったことまで記憶がよみがえってくる。

先生は知らない言葉をひとつひとつ解説してくれ、どんな状況なのかをちょっとした絵にして教えてくれていた。“盃”は“さかずき”と読むことや、“唐子”は中国風の髪形や服装をした子供のこと、「学生アイス」の“縮みのステテコひとつの老人が上がりかまちに大あぐらをかいて怒っている”という一文を読んだ時には、“これは知ってる!”と閃き、あの時の授業の風景や先生が描いた唐子のイラスト、先生が朗読した“上がりかまちに大あぐらをかいて怒っている”という響きが頭の中に浮かび上がっていく。

ただ、それぞれの意味までは覚えておらず、一度丁寧に教わったことを、今度は自分で調べながら読んでいった。そのついでに、当時の私は“この向田邦子さんの随筆は本当に面白い!”と言って、先生に“それなら『父の詫び状』を読んでみたら?”と勧められ、国語のノートの端っこに“父の詫び状”とメモを取ったことまで思い出した。たしかあの時は、メモをしながら“『父の詫び状』なんて、こんな暗いタイトルなの?”という印象で、読むのを後回しにしていたのも、ぼんやりと記憶に残っている。今になって「チーコとグランデ」を読んで声に出して笑いながら、「ごはん」の状況を想像しながら、“ずっと読んでいなかったなんて、惜しいことをした”と悔やむ。でも、「あだ桜」の後回しにしてしまう話や、「お辞儀」の切ない気持ちは今だからこそ分かるもので、それはそれで良かったような気もする。それに、向田さんが住んでいたマンションは今の職場の近くで、先日出社した時に改めてマンションの前まで足を運んだ。少し前まで何も知らず、マンションの近くでお昼ごはんを買いながら“どんな人生を歩めばここに住めるのだろう?”と思っていたけど、『父の詫び状』を読んでからは“向田邦子さんが住んでいたマンション”一色になった。ついでに「隣りの神様」に出てくる大松稲荷神社でも参拝して、“このあたりで向田さんはアイスクリームを売っていたのか”と歩き回りながらプチ聖地巡礼をしたら、4年ほど通った表参道駅にも少し愛情が湧いた気分だった。

それともうひとつ、ちょっと余計なことも思い出した。向田邦子さんは転勤族で、小学校だけでも4回学校が変わっている。私も父の仕事の都合で、小学校は3回学校が変わった。そのちょっとした共通点と、何か文章を書く仕事がしたいという理想が重なり、“エッセイストになりたい”……いや、“エッセイストになれるかも!”という……。『父の詫び状』を買って繰り返し読み、他にも向田邦子さんの作品を衝動買いした今の自分が言うのは本当に恥ずかしいけど、そんなうぬぼれた気持ちにどっぷり浸かっていた時期があった。

“私はエッセイストになれる”と思ったからには、まずは何をしたらいいのだろう。ドラマに出ていた海の近くにある高校には通いたいけれど、大学には行ったほうがいいのだろうか? それとも、今から下手でも執筆を始めたほうがいいのだろうか。居ても立っても居られないのに、学校の職業体験には「エッセイスト」なんて項目はないし、何をしたらいいのか分からず、自宅にあった恐らく母が買ったのであろう村上龍さん著書の『13歳のハローワーク』を初めて開く。そこには「作家」という項目があり、“これだ!”と期待しながらそのページを開くと、そこに書かれていたのは、まさに13歳だった私には絶望的な言葉だった。​

13歳から「作家になりたいんですが」と相談を受けたら、「作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ」とアドバイスすべきだろう。医師から作家になった人、教師から作家になった人、新聞記者から作家になった人、編集者から作家になった人、官僚から作家になった人、政治家から作家になった人、科学者から作家になった人、経営者から作家になった人、元犯罪者で服役の後で作家になった人、ギャンブラーから作家になった人、風俗嬢から作家になった人など、「作家への道」は作家の数だけバラエティがあるが、作家から政治家になった人がわずかにいるだけで、その逆はほとんどない。つまり作家から医師や教師になる人はほとんどいない。それは、作家が「一度なったらやめられないおいしい仕事」だからではなく、ほかに転身できない「最後の仕事」だからだ。服役囚でも、入院患者でも、死刑囚でも、亡命者でも、犯罪者でも、引きこもりでも、ホームレスでもできる仕事は作家しかない。作家の条件とはただ1つ、社会に対し、あるいは特定の誰かに対し、伝える必要と価値のある情報を持っているかどうかだ。伝える必要と価値のある情報を持っていて、もう残された生き方は作家しかない、そう思ったときに、作家になればいい。

書籍『13歳のハローワーク』の職業解説「作家」
https://www.13hw.com/jobcontent/02_03_01.html

すぐにこの村上龍という方が何者なのかを調べ、少しだけ納得し、ショックでショックでポロポロと涙が出てきた。あれ以来『13歳のハローワーク』は私にとってトラウマの本で、他の職業のページを開くことはなく、しばらくの間、村上龍は私の心を切り裂いた人物でしかなかった。

でも、今この職業解説を改めて読んだら、なんてありがたいお言葉なのだろうと思う。私のうぬぼれは、この言葉によって大半が砕け散ったが、たぶんこの時の私は初めて夢を見ていた。

夢を見るということは、きっと、うぬぼれることに近い。うぬぼれながら夢中になって、いつしかそれが誰かに届いて、叶ったり、散ったりするのが夢なのかもしれない。叶っても散っても、きっと自分の道しるべになると思う。今、私はエッセイストになれていないし、エッセイのひとつも書いていないけど、偶然にも『13歳のハローワーク』に書かれていた通り、今はほかのことに目を向けているから。



向田邦子さんの『父の詫び状』を読んで。村上龍さんの『13歳のハローワーク』の「作家」のページだけを読んで。そして、中前結花さんの「別れるとき、さくらは流れた」を読んで。

分かったような言い方になるけれど、誰かに話すことと、文章にすることはまるで違う。文章にすることは、誰かに話す時よりも孤独で、決定的で、少し危うい。感情や出来事を文字にするのには、たっぷりな時間と、勇気が必要だと思う。

中前さんの「別れるとき、さくらは流れた」を読んだ時、綴られている言葉のひとつひとつに“エッセイとして世に出すまでにかけた時間”を感じて胸がいっぱいになった。悲しいでも、嬉しいでも、面白いでもない。感情が大きく動く時は、どうしてこうも言葉では知らない気持ちになるのだろうか。

物事には、まさに今感じていることと、あとになって思うことがあって、私にとってのエッセイは、著者がそのふたつを丁寧に綴っているものである。“丁寧に”というには、“誰かに届けるため”よりも、まぁ、それもあるけど、“自分のため”が大前提にある気がする。理由はうまく説明できないけれど、中前さんのエッセイも向田さんのエッセイも、誰かのためではなく、自分のために綴っているように感じるから。村上さんの「作家」の職業解説も、13歳の子供のためであり、作家としての愛のあるお言葉だと今は心から思う。書く人がたっぷり時間をかけた言葉なのだから、読む人だって時間をかけないと分からないことだらけだ。

エッセイは自分の生きた証、大切な人が生きた証、自分と大切な人がともに生きた証。それが直感的に“できる!”と思っていた中学生の私は本当に無邪気にうぬぼれていたけど、エッセイストとは本当に逞しく、あの頃のまま憧れで、素敵な職業だと思う。

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