【連載小説】「青く、きらめく」Vol.6 第一章 風の章
目が覚めたのは、午前も大分日が昇ってからだった。昨夜も、風が吹きすさんでいた。いく分、風がおさまっている窓の外は、陽光が光り輝いている。カーテンのすき間から届く光が、それを伝えている。
床から身を起こし、どうしておれは自分の部屋の床で寝ているんだっけ、と頭をかいた。そうだ。おれのベッドでは、美晴が寝ているんだった。昨夜、美晴を背負って彼女のアパートまで行ったものの、鍵がどこにあるか分からず、本人は背中で寝てしまい、酔った頭で途方に暮れた。いろいろ考えるのも面倒になって、そのまま自分の家まで連れ帰って来たのだった。
そっと、美晴の顔をのぞいてみる。まだ化粧を知らないほほに、明るく日が差している。うぶ毛が、桃の皮の表面のように淡く光っている。とてもやわらかそうな肌。美晴は、まるでリスかヤマネのように丸まって気持ちよさそうに寝息を立てている。その上に踊るように、音もなくほこりが舞っている。彼女でも何でもない女の子が自分のベッドですやすやと眠っている状況。カケルは、図るでもなくやってきたこの不思議な光景を、しばらくぼんやりと眺めた。
時計は十一時を回っていた。
「いけね」
カケルは、はっとした。今日は十二時からバイトが入っていたのだった。カケルは、ポットにお湯を沸かすと、インスタントコーヒーを入れ、トースターに食パンを突っ込んで回した。その時、携帯が鳴った。
「このくそ忙しいときに誰だよ」
大体、分かってはいたが、やはり母だった。
「はい」
「カケル? 今、忙しい?」
「忙しいけど。今からバイト。何?」
焦げかけた食パンをトースターから出してバターをぬる。
「しばらく、静岡に行こうと思って」
「は?」
予想もしなかった言葉に、カケルはくわえていたパンを落としそうになった。
「だから、東京のお店にはしばらくいないから。まぁ、あんたがこっちに来ることもないと思ったけど。一応、伝えとこうと思って」
その言葉の響きから、ただの旅行じゃないことは分かった。そうか。
「また男かよ」
電話の向こうの母が黙っている。やっぱり、図星だ。
「いい加減にしろよ。いい年して、駆け落ちのまね事みたいに」
「いいじゃない。たまには」
「たまに? 次から次へと、切れ目ないじゃん。知らないよ、また痛い目に合っても。事件沙汰にだけはなんなよ」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。ちょっと人生のリフレッシュに行くだけよ」
そう言われると弱い。女手ひとつで育ててくれた母には感謝もしている。人生に疲れている様子を思うと、強くも言えない。
カケルの電話の声で、美晴が起きだして来たようだ。
「あ、おれ、もうすぐ出るから。ほら」
カケルは、食べかけの食パンを持ったまま、携帯を首と肩の間に挟み、もう片方の手で投げるように食パンの袋を美晴に渡した。
「誰かいるの?」
電話の向こうで、母がたずねる。
「ああ、ちょっと」
「女?」
「こっちのことはいいだろ、何だって」
ぞんざいな返しが母の勘にさわったようだ。
「あんただって似たようなもんじゃないの」
「似てないよ」
「似てるわよ」
「おれはいちいち女に依存なんかしてない。そっちこそ、何だよ。男に振り回されて、情けない。いつも自分勝手で」
「誰が勝手よ。その言葉、そのままあんたの父親に返すわ。勝手に女つくって出てったのは、あんたの父親でしょ」
上着に袖を通しかけていた動きが、止まった。そんなことは初めて聞いた。記憶のある時点から、今までだと、むしろその逆だと思っていたから。いつも違う男の人を家に連れてきていたのは、母だったから。浮気性なのは、母の方だと思っていたから。
つばを大きく飲み込んだのどが、ごくりと鳴った。しばらくの沈黙の後、カケルはようやく、言葉をついだ。
「そんなこと、おれに言われても――」
あとは、言葉にならなかった。何をどう言っていいのか、分からなかったからだ。
「急いでるから、もう切るよ」
向こうの言葉を待たずに電話を切り、カケルは今、すべき事に頭を戻した。ぼう然とパンの袋を持って立っている美晴の背を押して、半ば強制的に外に出すと、ナップザックを手に鍵をかけた。
「悪いけど、これからバイトなんだ」
アパートの鉄の階段を駆け下りながら、カケルはもう一言、ごめん、と下から声をかけた。美晴は、まだカケルのアパートのドアの前で、ぼう然とカケルを見送っていた。
今日も、明日もバイトが入っていて、よかった。手と体を動かせば、余計なことを考えないで済む。しかし、ふと、魔がさせば、カケルの頭には、母との電話の内容が蘇り、皿を運ぶ手を鈍らせた。
どういう流れで、父は女をつくって出て行ったのだろう。母の方にも落ち度はなかったのか。今も、その女と暮らしていたりするんだろうか。母のことも気になった。いきなり静岡へ行くなんて、相手はどんな奴なのか。黙って放っておいていいものか。様々なことが頭をめぐった。
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