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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.14第三章 雲の章

 「行こう」
 カケルは、振り返らずに海岸を後にする。向かう江の島のすぐ右隣りに、一片のはぐれ雲が漂っている。恐ろしく低い位置にあって、まるで霧のように軽いその雲は、かすかな風でゆるやかに形を変えていく。


はぐれ雲を見ると、いつもそれは自分のようだ、と思う。ひとりはぐれて、どこへ行くともなく、迷子のように漂う雲。心細くて、ひとりぼっちの雲。
 気づくと、カケルはずい分、先を歩いている。美晴は、何かにつかれたように慌ててカケルの後を追った。
 江の島へは、長い長い橋を渡る。そのほとんどを、二人は少しの距離を保ちながら、縦に並んで黙って歩いた。途中、何組もの観光客やカップルとすれ違った。みな、おしゃべりしながら笑っている。空気も華やいで見える。さっさと先を歩いていくカケルの背中には、そんな雰囲気はない。ましてや、デートに間違われる空気はみじんもない。まるで部活の顧問と生徒のように、黙々と長い橋を渡った。


 島に着くと、すぐに鳥居が現れた。青緑色のそれは、海に沈んでいたものを陸に引き上げてきたような不思議な鳥居で、上にはへびのような生き物がのたくった風情の文字で神社名が書かれている。

 美晴は、一瞬ためらった。この門の向こうには、軽々と入っていいのだろうか。よく見ると、神社名の刻まれた額の周りに、青緑色の竜がうねるように彫られている。竜に囲まれた黒い背景に浮かぶ金色の文字。文字たちは、のたくって踊るように動き出し、するりと枠から抜け出しそうな様相を呈している。
 お土産屋の並ぶにぎやかな通りを上ると、朱色の立派な鳥居が現れる。両側にはためくのぼりからも、由緒ある神社の風格を感じる。その向こうに、白い土台の風変わりな門がそびえている。中国や台湾などの異国を思わせる門に、足を止め、美晴は口を開けて眺めてしまった。
「竜宮城をモデルにしてるんだってさ」
 なるほど。それで、あの鳥居からこの門へ続くわけなんだ。カケルは、門をくぐるかと思いきや、そのすぐ隣にあるエスカーに向かった。美晴は黙ってついていく。一段上を行くカケルの背を、ふと見つめる。肩がしっかりしていて広い背中だな、と思う。そう思ってから、何か見てはいけないものを見てしまった気がして、うつむく。

 なぜ、先輩は、こんなところに私を連れてきたんだろう。たぶん、単なる気まぐれなんだろう。何か、来たい理由があって、たまたま出会った私を仕方なく誘う流れになってしまった。そんな感じに違いない。

 エスカーの後ろからもれ聞こえてくるカップルのささやき声が、耳にくすぐったい。心をどこに定めていいのかとまどううちに、景色は変わり、美晴は神社まで来ていた。
「こっち」
 正面の社殿で手を合わせたあと、カケルは、隣の八角形のお堂に入っていった。ついていくと、ガラスの向こうに白い像が見えた。妙につややかで、裸のその像は、手に楽器を持っている。琵琶だろう。胸のふくらみが、なまめかしくて、やわらかそうに見える。
 カケルは、社殿で手を合わせた時より、気持ち深く首をたれてお参りしている。
 暗い堂内で、像だけが、ほの白く浮かび上がっている。その指先がつま弾く調べは、どんな音色だろう。時空を超えて変わらない、妖艶なその姿。美晴は、そのなまめかしさと妖艶さに、息苦しさを覚えた。見ていたくないのに、魅せられる。その場を動けない。まるで、囚われてしまったように。ふいに、美晴は、幻聴のような笑い声を聞いた気がした。
 美晴は、思わず耳をふさいで、外へ走り出た。お堂の階段を一気に駆け下りて、順路を急ぐ。両側に満開のあじさいが、どうしたの? と迫ってくる。
「おい、待てよ」
 カケルの声に、はっと足を止めた。開けた眼下には、ヨットハーバーが見えた。
「どうした? 急に走り出して」
 美晴は、どう答えたものか困って、デッキに手を添えた。風がそよと吹き抜けた。首の後ろがひんやりした。
「笑い声が聞こえたんです」
「笑い声?」
 美晴は、振り返ると言った。
「あの神様、私や先輩を誘惑してます」
 しばらくの沈黙のあと、カケルが声をあげて笑った。
「それは神様に失礼だな」
 美晴はムキになって言った。
「そう感じたんです。だって、あんなに肌がつやつやして」
 カケルは、なおも笑った。笑いながら歩を進める。美晴は慌てて後を追う。
「あんな神様、見たことないです。だいたい、神様は、渋~いこげ茶色とか、おごそかな金色とかでしょ? なんであんなまっ白なんだろう。触りたくなるように作ったんです。きっと」
 少し、怒りさえ覚えてきた。カケルを追いかけながら、さらに上を目指すエスカーに乗る。
「お前、おかしなこと言うな」
 ちらっと振り返りながら、カケルが言う。
「でも、間違ってないかもしれない」
「え?」
 美晴は、カケルとの間を埋めるため一段エスカーを登った。あっという間に、上まで着いた。歩きながらたずねる。
「どういうことですか?」
「あれは芸能音楽の神様だから」
 目を丸くして、カケルの横に並ぶ。あぁ、それでか。カケルが真剣にお祈りしていた理由が分かった。次の舞台のためなのだ。
「誘惑しないと、人の心はつかめないからな」
 カケルが、上からいたずらっぽい目線でこちらを見た。
「おれもその声、聞きたかったよ」
 ほほがかあっと赤くなるのが分かった。何か言い返そうとしたとき、カケルは前を見て言った。
「ほら、見ろよ」
 カケルがあごでしゃくった前には広場があり、その向こうに青い空と水平線が見えた。
 声にならない叫びをあげて、美晴は広場の先まで歩いていく。深くため息をもらす。海と空は、ぼんやりと溶け合って、どこまでも続いている。

Vol.13へ戻る)              (Vol.15へつづく……)

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清水愛
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