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#15 イタリア・サルデーニャ ウルルン滞在記②『一緒に過ごした仲間と時間』

 宿はどこ? こんなに遠いの? 一体どこへ連れていかれるのだろう。もう、夜中ではないか。もしかして誘拐? 周辺に民家も見あたらないし…。
不安の種が、みるみる心の中で膨らんでいった。
ウルルン滞在記①はこちら
 
 その時である。
「あそこよ!!」
「えっ? どこどこ?」
身を起こすと、真っ暗な中にぼんやりと明かりの漏れる一軒家が見えた。
 あぁ良かったぁ、何事もなかった。無事、到着したんだ。誘拐じゃなかったのね?
 ホッとしたものの、いっときでも疑ったきまり悪さもあって、この言葉はグッと呑み込んだ。
 車内は安堵感が広がっていた。
 
 少しずつ建物が大きくなっていく。ハンドルをゆっくり右に切って、ヴィラの敷地に入る。玄関の正面で車を止めると、待ちくたびれていたのだろう、家の中からバタバタと数人、飛び出してきた。
「こんばんは」
「ようこそ」
「疲れたでしょ?」
とでも言っているのだろう。トランクから私たちのスーツケースを下ろしながら、笑顔で話しかけてくる。
 疲れきった私の耳には、もはやイタリア語なのか英語なのかも聞き分けられない。
 それでも「サンキュー」ぐらいは返したと思う。どうぞ、どうぞと家の中に導かれ、そのあとのことはもう、全く記憶にない。そのまま用意されたベッドに倒れ込んでいた。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 朝が来た。そこはトルトリという町だった。空港のあるカリアリから130㎞ほど離れた海の近くの田舎町だ。この町に滞在し、私たちはサルデーニャの人たちと1週間、このヴィラで生活するのだ。
 知らないまち。初めて出会う人たち。わからない言葉。ここで何が起きるのだろう。ワクワクと、ちょっぴりの不安にトキメキながら、サルデーニャ島・トルトリでのちっちゃな冒険が始まった。
 
 ……と、その前に、備忘録も兼ねて一緒に過ごした仲間について書き記しておこう。
 最初に出会ったイタリア人は、マルチェラ。空港に出迎えてくれた彼女である。
 私と背格好も変わらない。快活でよく喋る。たぶん男兄弟の中で育ったんじゃないかな、サバサバしている。小学校(いや、中学校かな?)で先生をしているらしいが(私が言える立場じゃないけど)、英語はそんなに達者ではなかったから英語教師ではなさそうだ。
 滞在中、
「海に泳ぎに行こうよ」
と誘われて、クミコと一緒に行ったことがある。エメラルドグリーンの透き通った地中海の海辺に「海の家」なんてどこにもなく、
「どこで着替えるの?」
と尋ねたら、
「その辺に岩陰があるじゃないの。誰もいないわよ」
と面倒くさそうに返された。
 見るとマルチェラは、すでに太陽の下、生まれたままの姿をさらしながら水着になっていた。屈託のない自然体が魅力的な彼女だ。
 
 もう1人は、小柄でショートヘアの親しみやすい女性、ジュリア。日に焼けた健康的な肌をしている。
 知的で優しい。カリアリの大学で教鞭をとっているという。
 母国語のほか、フランス語も話す彼女は、我が友、クミコとやりとりができた。クミコはフランスに留学していたから、難しい話を正確に伝えるときは、この二人を通して意思疎通を図った。
 翻訳機なんて存在しない時代。いかに、クミコがこの滞在で重要な役割を果たしていたことか!! 感謝の念が堪えない。
 
 当時、ジュリアは妊娠中で、はち切れんばかりのお腹を抱えていた。そんな彼女を静かに支えていた男性が、彼女の夫である。背が高く、無口で温厚な性格。どんな時もニコニコしていた。ジュリアをリスペクトしているのがわかる。
 ヴィラの暮らしの中で彼は、頻繁にキッチンに立った。妻が妊婦だからかもしれないが、その手さばきからすると日常的に料理をしているのだと思う。それがあまりにも自然で、当時の私には新鮮だった。
 
 今でこそ、日本でも男性が台所に立つ姿は珍しくないが、私の子供時代は、「男子、厨房に入らず」などという言葉も聞こえてきたから、この光景は、ちょっとした驚きで、好ましくもあった。
…なのになのに、何という失態! 彼の名前を失念してしまった。なんということか!
 
 ともあれ、私たちは互いをファーストネームで呼び合っていたから、彼らのファミリーネームを知ることはなかったけれど、当時、すでにイタリアは、「選択的夫婦別姓」が認められていたようで、『妻は自分の旧姓に夫の姓を加えて、名乗ることができる』と1975年に民法で定められたとのことだった。
(参考資料→夫婦別姓 イタリアの場合 まとめ – Sagra(サグラ) (la-sagra.net)
 はて? 2024年 令和の現在、日本の「選択的夫婦別氏制度」は今後、どう展開していくのだろうか。
 
 本題に戻ろう。
 3人目の女性は、ロベルタ。彼女がイタリア語の先生である。
 ロベルタもまた学校(中学校? いや高校かも?)の先生で、英語を担当しているとのことだったから、私たちのレッスンはすべて英語でなされた。
 まったく初めてのイタリア語を、他言語で学ぶのは私にとってかなり高いハードルで、巻き舌の“R”のロベルタのイタリアンイン・グリッシュと、私のジャパニーズ・イングリッシュを互いが聞き取るのは、苦闘ものだった。それでも、身振り手振りと、連想力を駆使すれば、なんとか通じるのだから不思議だ。
 
 そんな出来の悪い私に忍耐強く教えてくれたロベルタ先生は、背が高く、大人っぽく、きれいで、落ち着いた雰囲気なので、私よりも年上かと思っていたら、実は34歳で、私と同い歳だった。
「キミコ、何歳?」
「トレンタ・トレ(33歳)」
なせだろう、咄嗟に偽っていた。劣等生のちっぽけなプライドか?
 
 この4人のイタリア人の中に、私たちが加わったのだ。まずは、スペインから参加したジュリアン。中学生くらいの男の子だ。
 ある日、ダイニングでカプチーノを飲みながら、彼とクミコと3人でこんな話をしたことがある。
「ねぇ、ジュリアン。”ジュリアン” って男の子の名前なの?  “ジュリア” は女性の名前よね?」
「そうだよ。”マルチェラ” は女性の名前で、”マルチェロ” は、男の名前だよ。”ロベルタ” が女で、男は “ロベルト” さ」
「じゃあ、キミコもクミコも、イタリアやスペインでは、男の名前になっちゃうね。最後が “コ” で終わる。 ”o” だもんね」
「あはは、そうだね」
「じゃあ、”コカ・コーラ” はどっち?」
「女性名詞だよ。 ”cola”  ”a” で終わるからね」
日本語にも英語にも存在しない「男性名詞」と「女性名詞」。それらにつく冠詞、単数、複数形の語尾変化…。ラテン語系の法則に四苦八苦し、怒りさえおぼえた私に、この時のおしゃべりは、とても有意義だった。
 
「ねぇ、僕のガールフレンドは日本人なんだよ」
「えっ? ほんと? じゃあ、日本語を教えてあげる! ”ボンジュール”は、”こんにちは” って言うのよ」
 やっと出番が来たかと、得意になった。
 
 そもそもイタリア語もスペイン語も酷似している。フランス語もまた、共通の言い回しがあるようだ。
 私たち3人の会話は英語を基準としながらも、スペイン語をクミコがフランス語で理解して日本語に変える。私の日本語をフランス語で話し、ジュリアンがスペイン語で理解する。こんな風にして成り立った。

 あれから30年。彼は私たちと暮らしたことを覚えているのだろうか。きっと今頃、素敵な男性になっているに違いない。
……………
 こんな風にサルデーニャ島のヴィラでの暮らしは、ゆっくり、ゆっくり流れていた。
 そこに私たちが飛び込んだ。スケジュール通り時間を区切って、1日にいくつものアポをこなし、食事も寝る間も惜しんで働いていた私は、ここに着くなり東京の風を振りまいて、こう訊ねたものである。
「レッスンは、毎日、何時から始めるのですか?!」
その勢いに、ロベルタは苦笑して言った。
「…そうねぇ、何時にする? 何時がいい?」
「えっ? どうして? 予定を決めてないの?」
拍子抜けした。毎日がこんな調子だ。

 これがイタリア式なのか、サルデーニャ風なのか、この人たちの申し合わせなのだろうか…。
 ヴィラでの時間は、その日の気分とみんなの希望で、なんの枠にとらわれることなく、自由なリズムで回っていた。
つづく

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