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「両立」なんつー言葉自体が、嫌い。という話

「仕事と育児の両立」

働きママ・パパにとっては
耳にタコができるほど聞き飽きているこのワード

耳にするたび、な〜んかモヤモヤしていたんだけど

要はアレだ、
わたし、両立って言葉そのものが、嫌いだったみたい。


両立って何?
どうしたら”両立”できてることになるの?

当の本人は、両立したるで〜なんてことを意識する以前に
ただ現実として、目の前に広がることに
はじから対応して対処して
毎日を精一杯生きながらえているだけのことであって

すごいとか、
偉いとか、
そういう次元の話じゃなくて

当たり前の日常がそこにあるだけなんだよね。


それを改めて
”両立”なんて言葉でくくってしまうがゆえに

どれもこれも完璧(もしくは、及第点)にならなきゃ…!
どこを切り取られても恥ずかしくないように
ちゃんとしなきゃ…!

そんな意識が働いてしまうんでないのかしら。
少なくとも、わたしみたく
両立というキーワードでモヤモヤする人間は。


わたしは仕事も好きだし、
子どもたちと過ごす時間も夫婦で過ごす時間も愛しているし、
一人でいる時間も最高に幸せ。

どれが一番とかなくて

どれも最上の時間であり
どれもわたしを形作る、欠かせない時間たち。

なんていうか、
両立とかそういう次元ではないものがそこにあって

他の誰のものでもない、
わたしだけの尺度で

幸せや充実感を感じていればいいのに

いつの間にか、

会社の評価や
両親の評価
友人の評価
家族からの評価を求めてしまっている人が、圧倒的に多い。

かつてわたしがそうであったように。


「これ以上頑張らなくていい」

と言われれば、
自分は必要とされていないと感じ

「両立なんて無理だよ」

と言われれば
自分は無能だと烙印を押されたように感じた。


誰かに何かを頼まれれば
それこそがわたしの存在意義(価値)だと勘違いをし

相手が別の方に別の依頼をしたとあらば
その全てにおいて嫉妬した。


わたしが、
他人の中にしか居なかったことにすら
わたしは気づかずに居たのだ。


人は一人では生きられない

それは確かにその通りなんだけど

人は誰かの中に存在する以前に
今ココに在る、
その事実そのもの自体に価値があって

誰かの中に存在するということなんかは
あとからくっついてくること。

わたし自身が認識している
わたし

が、

今ココにいて
息をして
生きながらえている

その存在価値を抜きにして
それ以降のことなど、考えることはできないんだよ。


どんなわたしでも、
大丈夫。


どんなわたしでも、
素晴らしい。


どんなわたしでも
可愛くて愛しくて

今ココに居てくれて、ありがとう。


そんなことに
42年生きてきて、ようやく気づいたんだ。



だから「両立」なんて言葉に踊らされないで良い。

求められている役割になんか振り回されなくて良い。


「わたし」の魂が求めることに
向き合う時間、実現する時間を後回しにしない。


「わたし」の魂が求めることを
思い出す時間を定期的に取り続ける。



見せかけの充実感に魂を削っていないかい?

いつも自分に、問い続けたい。


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