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【アート】没後50年 福田平八郎展 大阪中之島美術館(2024アートツアー⑤)

少し前になるが、ゴールデンウィーク中に、大阪中之島美術館『没後50年 福田平八郎展』に行ってきた。

SNSでの広告を見て興味を持ち(SNSさんは私の好みをよくご存じなのだ)、いつ行こうかと考えているうちに、結局ゴールデンウィークの真っ只中、5月3日になってしまったのだが、、、

美術館に到着すると、館外まで長蛇の列が続いていた。うそやろ〜!と思ったら、同時開催されているモネ展の列だった(ほっ)。それにしてもすごい列だったが、ゴールデンウイーク最終日までの開催と、展覧会も佳境に入っていたこともあっただろうと思われる。

かたや、いいのか悪いのか『福田平八郎展』はスイスイと入れて、適度な混みようだったので、思いのほかじっくりと鑑賞できた。

そして、、、

私は久しぶりに、絵を観て感動した。

実は、以前に、美術批評家 椹木野衣氏の『感性は感動しない』というコラムを読んでから、簡単に感動という言葉は使わないようにしようと思っていたのだが、、、

でもやっぱり今日は、感動という感想が正しいと思ったのだ。

特に代表作の『漣(さざなみ)』は、写真で観るよりもずっと迫力があり、語りかけてくるものがあった。 

なぜなのか、自分なりにうんうんと考察したところ、それは作品に、作者自身の感動が込められているからだと私は思った。

つまり、平八郎氏が、感動してそのモチーフを描き、自身の内側に起こった情動も含めて、表現をしているからだと。

だから、感動が伝わるのだと。

平八郎氏は、写実にこだわった人だ。緻密な写生画もたくさん展示されていたが、おそらく、ただ目の前のものを観察し正確に描いていただけではなく、自身の中に生まれる「きれいだな」とか「美しいな」という情動も含めて観察できていたということなのではないかと想像する。

だからこそ、平八郎氏の絵を観て、私は、感動にも色んな種類があるのだということに気づき、人の情緒は奥深いということを改めて理解したように思った。

瞬間に沸き起こる激しい情動
時間を忘れて魅入ってしまうような心奪われる感じ
じんわりと充足されていく心地の良い空気感、、、

そんな色んな種類の感動(情動)をこんなにも、豊かに描き分けられるなんて、、、すました顔で絵を観ながら、内心では「すごい、すごいよマサルさん!!」と、私が一人見悶えていたことは、まわりには気づかれてはいないだろう。でも、お隣の誰かさんと感動を共有したい気持ちでいっぱいだった。

また、平八郎氏の表現は、写実表現を突き詰めた先にあり、デザインとも抽象画とも違う、唯一無二の表現である。日本画でありながら、これまでの日本画のパターンに捉われていない。

この展覧会を、別で観た友人と感想を言い合ったところ、『竹』が良かったと言っていた。とりわけ、作品に添えられているコメントに心が動いたと。そのコメントは以下。

『昔から竹は緑青(ろくしょう)で描くものときまっているが、3年間見続けて来てるけど、私にはまだどうしても竹が緑青に見えない』

表現することは、本当に勇気のいることだ。

平八郎氏の竹は、黄色、紫、茶色、、、と彩豊か。でも、実際に竹は、いろんな色をしているのだ。なのに、そのままに描くことに勇気がいる。自分の目を信じることに勇気がいる。自分の感性を信じることに勇気がいる。そんな表現の壁を、悩みながら、打ち破っていくことにどれほどの想いがあったことか、、、そこから生まれる作品には、やはり、感動という言葉がふさわしいように私は思った。

モネも良い。良いに決まってるんだけど、、、ね。

以前に、私自身が、『特に芸術分野で言うと、日本では、いいものはすでに決まっていて、ほとんどの人が右に倣えで自分自身で判断せず、良し悪しを決めてしまうようなところがあるように思う』という内容を別の記事で書いたことがあったが、この観覧者数の差をみると、やはりそういう価値観は根強いなと感じてしまう。

モネに並ぶ人々に、おーい、その群れを離れてこっちを観にこいよー。
そしたら、思いもよらない楽しい冒険の始まりになるかもしれないよー。

私は、そんな呼びかけをしたくなった。

なぜならば、福田平八郎の独自性や繊細な情緒表現は、私たちに新たな感性を開いてくれるきっかけに満ちていたからだ。

こういう機会は、逃してはならない。


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