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高卒女子が18歳で裁判所に就職しました‼️

はじめまして。

あいなつと申します。

この度、自己紹介記事を再び投稿することとしました。

なぜかと言いますと…

自分の自己紹介の記事を改めて読み返したところ

マッッッジで、つまらん!!

真面目か?という感じです。

そこで

あいという人間にもっと親しみや興味をもっていただくため

題して

あいなつの解体新書をリニューアル公開します。

この記事を通して、ひとりのクリエイター志望のおばさんについて、ほんのちょっとでも興味をもっていただけたら…と願います。


あいなつの解体新書

傘も持ったし準備万端。いざ人生の旅へ!

子供時代

私、あいは1977年(悪名高きロスジェネ世代)に千葉県で生まれました。

子供時代の主な記憶は浦安市の母の実家の古い家屋です。

いまだに夢に出てくるぐらいレトロなインパクト家屋でした。

両親の離婚を機にインパクト家屋での生活が始まりました。

祖母、母、姉、私の女だらけの4人暮らしです。

いわゆる、ひとり親家庭の苦労はせず、女だらけの暮らしは快適かつ楽しい生活でした。

学生時代/優等生→オタク陰キャ

小中学校は地元の公立に通いました。

ローカルな土地柄ということもあり、こんな私でも優等生というポジションをキープしていました。

中学校の時は生徒会活動が話題を呼び、新聞の取材を受けることがあり、今思えば地元では優秀な子として、ちょっとだけ有名人でした。

…………………………………

その後、高校受験を経て、東京の私立の進学校に入学しました。

高校時代は中学校時代とうってかわり、かなりパッとしない地味な子として、さえない学生生活を送りました。

今思っても、高校時代の印象がなさすぎて、ぼんやりとした記憶しかありません。

こうみえて、一応、コギャル・ルーズソックス世代なんですけどね(笑)。

転機

新たな芽、ぴょっこり


高校3年の春を控えた、ある日、

「そうだ。公務員になろう!」

と決意しました。

ノリとしては当時CMで流行った「そうだ。京都に行こう。」みたいな感じでした。

もともと、ひとり親家庭で育っていたせいか私はパートナーを得て暮らしを安定させるという発想がまったくありませんでした。

なのであまり深く考えず、公務員なら生涯ひとりでも食いっぱぐれがないだろうと思い、サクッと決断しました。

これ以上ないくらい安易な決断でした。

そこから、独自の公務員試験に受かるセオリーにのっとり粛々と勉強をした結果、

【裁判所職員採用一般職試験(裁判所事務官、高卒者区分)】
 ※当時、裁判所職員採用試験Ⅲ種

見事、合格しました。

晴れて、18歳の春、霞が関の街をスーツ姿で歩くことに成功したのです。

この頃の私は、まさに我が世の春といった感じでした。

裁判所職員・新規採用時代

バイト経験がなく、いきなり就職してしまった私は当初、ほっっうんとぉ〜に苦労しました。

仕事で使用する言葉の意味や使い方がまったくわからず、毎日登庁するのが意味もなくイヤでたまりませんでした。

幸い上司や先輩方に恵まれ、お猿さんにわかるくらいの丁寧な指導をしていただき、なんとか仕事をこなせるように成長していきました。


結婚・出産・子育て

人生最大のサプライズ

当時、結婚願望がまったくなかった私ですが、同じ職場の先輩と24歳の秋に結婚をしました。

出会ってから半年のスピード婚&妊娠&出産と怒涛の展開でした。

そして夏目愛子、25歳の夏、母になりました。

私の人生の中で最高のサプライズを経験することができました。

その後、産休、育休を経て、26歳の春に順調に職場復帰を果たしました。

はい、ここから激動のハードモード時代に突入です。


病気・入院

育休明けは、仕事・家事・育児と忙しいながらも充実した日々を送っていました。

そんな矢先、ある日突然、パニック障害という病にかかったのです。

まったく理由に心当たりがなく、充実した日々がパニック障害の発作に怯え泣く日々に変わってしまいました。

病気はどんどん悪化していき、とうとう仕事は休職するという事態になりました。

当然育児どころではなく、子供を実家に預け精神科病棟への入院を余儀なくされました。

精神科病棟は患者同士の人間関係がものすごくディープで、療養とは程遠い入院生活でした。

あの複雑な人間関係をわたりきることができるなら、そもそもメンタルは病まないと、今でも思います。

さらに精神科病棟は規則が多く看護師さんが患者に対して、意地悪な姑かと思うくらいの厳しさでした。

病院内における嫁姑問題がこじれないように、なぜか患者が看護師の機嫌を取るという謎の図式に、私は疑問を感じていました。

とはいうものの患者の立場では郷に入っては郷に従うしかありませんでした。

結果、入院して療養するはずが、なぜか高度なコミュ力を要求されるという摩訶不思議な体験をしました。

今となっては、いい思い出……。

には、ぜっっったいになりません!!

このエピソードはいずれ連載記事として必ず公開します!


離 婚

33歳、厄年に離婚

病気が一番ひどい時の私はとにかく荒ぶっていました。

自分から、ぶつかりにいって因縁つけるチンピラのようでした。

当然のことながら、夫婦関係は悪化の一途をたどっていきました。

夫の我慢が限界を超える頃、双方の実家が話し合い、離婚という結論に達しました。

当然チンピラの私に育児ができるはずもなく親権は夫が持つことになりました。

私は父娘の住居からスープの冷めない距離に住み、交流をもち続け、娘の成長を見守るようにしました。


退 職

病気を発症して以降、何年にもわたり復職しては休職するという状態を繰り返し病状は、まったく安定しませんでした。

そんな状況にも関わらず病気を快復して昔みたいに働くことを、あきらめたくありませんでした。

本音をいえば絶対に辞めたくなかったです。

しかし、ある時から緊張の糸が切れ、退職について真剣に考え始めるようになりました。

こんなに病気が治らないということは、そもそも裁判所の仕事に自分は向いていないんじゃないか?

うすうす感じていた今更な結論に達し、28年勤めた裁判所を退職するに至りました。


現 在

モットーは一日一笑

裁判所を退職したことが正しかったかどうかは、私の中でまだ答えは出ていません。

ただ、これだけはハッキリ言えます。

在宅ワークで生きていくという新たな選択肢に今、ワクワクしています。

笑って過ごしても泣いて過ごしても、私たちに与えられた時間は一緒です。

だったら、泣くだけ損じゃないですか?

そして、今日も私はワクワクの種を育ててゆき笑顔で思いを書きつづっていきます。

2023.5.22  あいなつ



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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